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アイウェア

まさしくその通りだと思います。

靴磨きがどうの、ジャケットにブラシをどうの以前に、アイウェアをキチンと手入れできない人は、身嗜みというよりも、生活観念に欠落があると思います。端的に申し上げれば、だらしない人ということです。

どうして、メガネやサングラスをメンテナンスしないのですか⁉︎

他所様のブログのリンクが続いて恐縮ですが、まさしくおっしゃる通りなので(笑)。
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まさしく…

おっしゃる通りです。

機材を選ぶということ


定家

雪の内に
いかでをらまし
うぐひすの
こゑこそ梅の
しるべなりけれ

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最近、定家の歌が好きだ。
人物の情けなさが鼻について喰わず嫌いだったけれど、一度魅せられるとぐいぐい惹きつけられる。
濃厚ではない。むしろ淡すぎる印象を受けるが、智性を基とした怜悧な抑制が効いた歌は極上の吸物のような味わいがあると思う。
言葉の美しさを、三十一文字の中にここまで凝縮できた歌人はいないのではないか?声に出しても読んでもいいし、黙して目で追ってもいい。
万葉から古今を識り尽くした深さ、磨きぬいた言葉のみを選び採る厳しさから詠じだされる歌は、透き通って輝く水晶の珠のようだ。

Homburg.

ホムブルク・ハットは、トッパーに次いでフォーマルなハットと言われますが、形が色々とあり、大雑把に分けると中折れがフォーマルになった感じと、トッパーがくだけた感じのタイプがあります。
最近はホムブルクというと、中折れがフォーマルになった感じの、映画『ゴッドファーザー』でアル・パチーノがかぶったようなものばかりになってしまっていますが、

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ディナー・コートやモーニング、シュトレーゼマン(ディレクタースーツ)には、トッパーがくだけた感じのよりフォーマルな雰囲気の、チャーチルや殊にイーデン卿がかぶったような感じのものが合うと常々思っています。

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そんな、フォーマル寄りのホムブルクをかぶろうと思い立って相談に乗って戴き、スタートして二度目のフィッティングです。今回から本番の素材です。ビーバーの特有の質感と軽さはもう堪えられませんし、着感は最高!特に、バラシァのディナーコートとは相性抜群でございます!

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リボンとスベリ(内側のバンド)はまだ着いていません。

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今季からデビューさせられそうなので、ダークスーツからブラックタイで、ガンガン活躍して貰う予定です。

リルケ

私は、リルケの詩が好きです。特に薔薇を詩ったものが好きです。
リルケは、自分が丹精込めて栽培した薔薇の、その棘が指に刺さり、それがもとで急性白血病を発症し、51歳で亡くなりました。

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リルケには薔薇を題材にした諸々の詩がありますが、生涯をかけて追求した、その薔薇の美と引き換えのように逝きました。皮肉な生涯のようにもみえますが、何かに没頭している人間の生涯というものは、本人の充実とは別に、他人の目から見ればどこか滑稽で、皮肉に見えるものなのではないでしょうか。考え方によっては、人として最も幸福な生涯とも言えるのではないかと思うのです。そんな生涯でありたいと願うのです。
詩そのものだけでなく、そんなところが、薔薇を愛する私がリルケに惹きつけられるところかとも思うのです。
Rose, oh reiner Widerspruch, Lust,
Niemandes Schlaf zu sein unter
Soviel Lidern

Res severa est verum gaudium.
(真の歓びこそ大切である。)

観察力

観察力、これは人間が生きる上でとても重要な要素だと思うんです。
私は観察力の指標としてよくギリシャ神話のパンドラの箱の話を挙げます。
パンドラが、この世の悪しき諸々のものが封じられている箱を開けてしまい、それらはアッと言う間に世界中に拡散してしまって、パンドラが慌てて箱を閉じようとすると、中から弱々しい、開けてくれ、って声がして、仄かな光とともに希望が出て来た。
で、めでたしめでたしのハッピーエンドみたいに思われてたりもするけど、ちょいと待った!箱は、「この世の悪しき諸々のもの」が封じられてたんだよね?だったら、希望を単純にイイものっての、どうよ⁇ ってそう考えられるのが、まともな観察力のある人だと思うんですよね。
ギリシャ神話って殆どのお話が、一つの事柄を必ず表裏二面から見詰める構成になってるんです。
この場合は希望ですが、人間の生き往きは希望を持つことが最悪の結果につながることもある訳です。時に希望は、いいか悪いかの判断をさせる間を与えずに、人を前に進ませますからね。
これは私見ですが、パンドラの犯した罪で最も大きなものは、この希望を解き放ったこと、とも言えると思うんです。


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パンドラ

ま、話しを観察力に戻すと、こいつは冷静な判断力が無いと発揮出来ない力なんですよ。感情的になると一方的になって、表裏二面から物事を見るなんて、できゃしませんわな。
人の揉め事にしても、片方だけから話を聞いただけで判断するのは危険なことです。揉め事なんてのは、どちらかに分が有るにしても、お互いの主張の中間よりややどちらか側ということが多いものですから。
何をするにしても、どんな行動をするにしても、観察力が無ければ求めることの根っこに近づくことは、不可能とまでは言いませんがまず無理だというのが私の持論です。で、観察力を発揮出来るということは、その時点で冷静だということにもなる訳です。
コレは勘違いされがちなんだけど、細部、つまりディテールを捉えるのは観察力ではありません。それは、たいてい熱意という感情に支えられたものが大きいですから、たいした観察力は要らんのです。物事の大極を掴み、本質に近づく力こそが観察力なのです。

雨の目黒川

246から中目黒まで目黒川沿いを歩いた。
雨に煙った目黒川は、河岸の桜に蕾がつき始めていたが、気温は低いのに、軽い腐臭が漂っていた。
昨年の青いLEDイベントを見て感じたことだが、目黒川盛り上げのきっかけとなった河岸の桜は、知る人ぞ知る、だから良かったのではないかと。
現在は、イベントの度に河川清掃をして抑臭剤を流しているそうだが、所詮ドブ川はドブ川だ。川型設計がそも、生活排水を流すドブ川なのだから。
上野や千鳥ヶ淵は、どんなに水が汚れても花見客の振る舞いが悪くても、公園でありお堀だから名所足り得るのだ。
目黒川は、知る人ぞ知るのマイナーポイントだからこそ、存在価値があったのだと思える。もし、本当に桜やイベントで名所化したいのであれば、地元、特に花見をはじめイベントで利益を享受する地元の人間や主催者は、川型そのものをなんとかする運動と努力をするべきだろう。その気があるならば、実現が孫子の代になっても。
根本的課題を放っておいて、表面を糊塗して誤魔化して目を背けるやり方は、今の日本と日本人の象徴のようだ。やる方も、見る方も。
何かというとライトアップするというのも、陳腐で安っぽい。
元来、ドブ川の汚さ醜さを隠すための桜が妙齢になったからと、それにぶら下がって商売をする発想はさもし過ぎる。また、ドブ川沿いに芋洗いの芋になりに行く方も安っぽ過ぎる。
そうしたことには、蒸留酒などの強いスピリッツの販売が禁止され、歩行が困難になるくらい混み始めた頃に気が付くべきだったのかもしれない。同級生の酒販店経営者は、毎年花見の時期に目黒川沿いで催事をしていたが、数年前に、目黒川は終わったと言って止めた。流石に見る目が有ったと思う。
満開の染井吉野の下で、人通りの疎らな川沿いでピンガを呷りながら、ブラジル人と騒いだ頃が懐かしい。
今年の花期は、目黒川沿いには近寄るまい。
和歌に花と詠じられたら、それは桜、という櫻は山櫻で染井吉野じゃないしね。ま、元々は、花と詠じられたら梅なんですが。それに、美しき蒼きドナウで新年を寿いだ人間が、自分の国を代表する花の盛りを、ドブ川で悦んで寿いでいるようじゃ話になりませんしね(笑)。

個性と感性、嗚呼勘違い。

私には、常々疑問に思っていることがあります、と申しますか、間違っているのではないかと思うことがあるのです。
それは、自己の感性を磨くことが、個性を発揮することに繋がり、結果として、その人なりのスタイルの完成に至る、という図式が、です。
私は、個性というものは、物理的で肉体的で個人的なもの。つまり、具体的で現実的な、その人だけのものだと思っています。それに対して、感性というものは、精神的で抽象的で社会的なもの、或いは、多くの人との共有概念だと思っています。つまり、個性というものは、思考でもなく、感情でもなく、具体的な行動パターンだと考えているということです。
着る事に関しても、それは全く同じことだと思っています。
Aさんは紺が好き、Bさんはグレイが好き、というのは、一見感性の世界のお話で、精神的なもののように見えますが、だからAさんが紺の服を着る、Bさんがグレイの服を着る、というのは、きわめて具体的かつ現実的な行動で、他人はそれらの行動によって、AさんやBさんの個性というものを認識するからです。

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彼のこういった服装もまた、現実的な試行錯誤と選択の結果です。

感性というものは、人と人との共通概念であって、決して個人的なものではありません。
人の成功を喜ぶ、羨む、また、人の不幸や死を悲しんだり、悼んだりする、それが感性です。それは、成功というものが形はどうあれ、喜ばしい、または羨むべきもの、不幸や死は、悲しい、そして悼むべきものという共通概念があってはじめて成り立つものなのです。
装いの上手な人を、あの人は素敵だ、と認識する感性もまた、そうしたものです。「素敵」という共通概念があるから、そう思うのです。
反対する、感性=個性派(笑)の方達に、具体的な反証を挙げると、感性が個々千差万別で、イコール個性ということはこういうことです。スーツを完璧に着こなしている人を素敵と思う人がいて、また、同じレベルで、髪も洗わず異臭を放ち、そのうえ糞尿まみれの人を素敵と思う人がいるということです。肉親の死を哀しいと思うのと同じレベルで、喜ばしいと思う(対立したり、特定の思惑が有ってではありませんよ・笑)人がいるということです。
感性を、個人固有のものと考えるのはそういうことであって、イコール個性ということになれば、社会というものが機能しなくなってしまうのです。

ですから、経験値なるものがモノを言うことというのは、全て、肉体的、物理的事象なのです。着こなしとて例外ではありません。
経験値がモノを言うということは、反復練習や試行錯誤によって方法が選択されていくということで、一見、感覚的、精神的な感情作用に見えますが、実に具体的な行動の積み重ねなのです。
その人なりのスタイルというのは、こうした動作の繰り返しによって確立するもので、古来日本では、それを「型」と言いました。茶道でも、能でも、完成の域に達すると型がイコール自然とされるのは、このことを示しているのです。

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反復練習の積み重ねの、明確な成果の事例ではないでしょうか(笑)

私が何を書きたいのかと言えば、安易に人の服装の真似をして、しかも上手くいかない人というのは、上記のような事の理解が欠けているのだと思う、ということです。
そして、そういう方の多くは、その原因を感性の違いや優劣という誤解に転嫁してしまうのです。
考えても見て下さい。まず顔、そして体格をはじめ、自分と全く同じという人は、世に一人として存在しないのです。ということは、自分が素敵だと思う人のやり方を(それは服の色や柄などだけでなく、考え方や選択方法なども含めてですが)そのまま単純に真似てもダメに決まっています。
世に、多くの人に素敵だと言われる人は、多くの試行錯誤と反復練習を繰り返してきているからこそ、そうなっているのです。
チェロに一度触れたというだけで、オーケストラの奏者のように弾けるようになる訳ではないのです。昨日、画材屋さんで初めて絵具と筆を買ってきた人間が、人間国宝のような絵が描ける訳ではないのです。
こう具体的に書けば、解からないという方は殆どいらっしゃらないでしょう。しかし、ご自分の服装に関することは如何でしょうか(笑)。
案ずるより産むが易し。習うより慣れろ。自分だけの唯一無二の感性を発揮した挙句、葬儀で一人大笑いするおかしな人になってしまう前に、まず、自分で試行錯誤し、反復練習することをお勧めしたいと思います。

そして、「あなただけの感性により磨きをかけ、自分だけのスタイルを確立しましょう」などという、怪しげなことを言う人達の話は、眉に唾して聞いて頂きたいものです。

徒然の徒然 (1)。

私は思慮深くありたいし、また人はそうあろうと努めるべきだとも思うのです。
自分が無策な事に対して、他人が気の利いて見える事を言うと、熟慮もせずにすぐチヤホヤする。そんな、笛を吹けば踊り出すが如き軽率は行動力とは全く違うと思っています。その種の愚かさを持つ者は、常に他人に危険と不利益をもたらすものです。

人間の持つ最も醜い癖の一つは、平凡に齢を重ねると「自分はこういう人を知っている。」とか、世にその道の大家と云われている人間の言葉を安易に引用して、「この人はこう言っている(だから私は間違っていない)。」と言いたがる事です。
そして、人間の弱さというのは、肥満した人間を見れば理解できます。自分が怠惰で醜いことを熟知しながら、他人にそれを指摘されると、自らの怠惰を反省もせず、勝手に傷つき、指摘した者を非常識とののしり、克服の努力からは常に目を背けるものです。誰しもが持つ弱さではあるが、肥満した人間はそれがとりわけ顕著であるという傾向があります。

自分を表現する事と、自分の弱さを赤裸々に曝け出す事は違うものです。
誰でも突発時には取り乱すことはあるものです。しかし、少し時間がたてば落ち着きを取り戻して事態に対処し、狼狽えないのが大人でしょう。
あそこでこんな話が、あの人がこう言っているという類の危機意識の煽り方は、幼児の囃し立てや泣き言に等しいものです。

自分が、訳もわからず不安で、安心したいがための仲間作りに、人間の危機意識を利用するのは、とても悪質なことだと思います。やる者はどんな時でも、一人でも、百万人とでもやるべきことはやるものです。
「今、何かしてますか?」という問いかけをする者が一番使い物にならない者でしょう。自分の頭で考えて、自分の責任で、自分の身体で行動して欲しいものです。

自分の行動を他者のそれと比較して過大評価しても過小評価してもいけません。行動を比較すること自体が不毛です。一文字を書くことと大岩を動かすことの効果のどちらが大きいかは、本人にはわからないのですから。自分の人生に信念も哲学も持てない者は、たいていこれで自信を失うものです。黙々と自分がすべきと思う事だけを為せばよいのです。

引用で恐縮ですが、私がいつも心で味わいなおす言葉です。『私は、小さな一隅を照らすものでありたい。私の照らす一隅が、どんなに惨めで、小さく、儚くても、悪びれず、怯まず、いつもほのかに照らしていたい。そして私は、人の唇に浮かぶ微笑みを、自分の幸せと感じられる人間でありたい。』
諸葛亮も、仰いました。『吾が心、秤の如し。人(他人)の為に低昂する能はず。』

仕立て屋さん、ポワロと私。

アガサ・クリスティー作の名探偵、エルキュール・ポワロをご存知の方は多いと思います。
私はITVのドラマで、俳優のデビッド・スーシェ演じる「エルキュール・ポワロ」の、『誘拐された総理大臣 (The Kidnapped Prime Minister)』という回が好きなのです。
ストーリー全般は、ポワロのシリーズの中ではあまり盛り上がる方ではないのですが、オープニングとエピローグで、ポワロが仕立て屋へ行き、服を誂えるシーンが好きなのです。私の思っている仕立て屋さんの理想に近い形がそこにはあるからです。

ポワロの服を仕立てる、老仕立て屋Fingler氏は、寂しい街外れに店を構えています。
質素な服装をして、反物が天井まで積まれた雑然とした店で作業をしています。しかし、自身の技術に関しての努力・研鑽と自信は揺るぎなく、同行したポワロの友人にしてパートナーのヘイスティングズ氏が、それを疑う素振りを見せると、「サビル・ロゥ(日本語吹き替えでは有名な店となっています)をお試しになられたければ、いつでもどうぞ。でも、みんな私が教えた子達ですよ。」と、チクリとやりますが、服を作るということ以外にはすべてに控えめで、出過ぎる事がありません。
Fingler氏が、ポワロのウエストが1/2インチ増えた(太った)ことを指摘して、ポワロがそれを否定すると、彼は悪戯っぽい表情でヘイスティングズ氏に、「このお客様は、毎年、私のメジャーが縮むとおっしゃるんです」と言い、ポワロと顔を見合わせて微笑むシーンは秀逸です。
店を出てから、ヘイスティングズ氏がポワロにもう一度、「どうしてサビル・ロゥ(日本語吹き替えでは、やはり有名な店になっていますが)で仕立てないんです?」と聞くと、ポワロはこう答えます。
「Fingler氏は芸術家と言っていい仕立て屋です、そういう人間には、それを理解し、支える人間が必ず必要なんです。」

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現在の、日本人の仕立て屋さんの「技術」は優秀だと思います。特に、三十代中盤から四十代くらいまでの、若手と言われる仕立て屋さん達の技術は、世界的に見ても、全く遜色がないか、むしろ上回っているとさえ感じます。
しかし、私が気になっているのは、彼らの多くが、私が考える「お客様を迎えるに相応しい」装いをしておらず、どこぞの大手企業の経営陣のような服装や、休日に遊びに行くような服装、これからナイトイベントに繰り出すような服装をしていて、自らをスタイルの発信源の様に意識しているかのようなフシが見え隠れするということです。
日本では、仕立て屋さんの場合は、家業を継ぐ方よりも、服好きが昂じて仕事になった方が多くなりつつあることや、欧州などに比べて、服を誂える顧客のレベルが低いということがあり、そうした状況になるのは、ある程度致し方が無いと言えるのかもしれませんが、ハッキリ申し上げて、私は好きではありませんし、仕立て屋さんが教祖の様になっている状況も不気味だと思いますし(笑)、私は服を作る新興宗教に入信する気も、お布施をする気も全くありません。

ここで一つ、日本の多くの方が勘違いされていることを指摘しておきたいと思います。日本ではここ数年、職人やクラフツマンシップが大きく評価されていますが、私は、その点、やや過剰に過ぎると思っています。私も、自身が技術者でありますから、そうしたものは尊重しますし、非常に大切に思っていますが、それと、職人や技術者を祀り上げることとは違うと思うのです。
例えて言うならば、イングリッシュネスやパリのエスプリ、ローマやミラノのエレガンスを体現しているのは、仕立て屋さんなどではなく、質の高い顧客達なのです。そうした質の高い顧客を納得させ続けていられるだけの能力を持ち、努力・研鑽を重ねているからこそ、一流どころはそうなのであって、はじめにまず顧客ありき、なのです。服を作る人間を祀り上げている限り、日本の顧客たちはその域に達することはできないでしょう。
これは、服作りをする人達を決して軽視したり、貶めたりしていうものではありませんが、顧客にとって仕立て屋さんは、自己を表現するための、自分にとって必要な要素を得る為の、一つの機関なり道具である、それ以上でも以下でもない、とどこかで意識するべきであると思うのです。そう思えてはじめて、「たかが服、されど服」の意識になれるのだと思います。

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私が服を仕立てる時に選ぶ生地には、ある特長があります。それは、私の好みでもあり、私が持っている、服を着て行くステージの傾向でもあると思います。また、どんなに生地の素性やスペックが良くても、決して着ないタイプの生地もあります。
私は、最大二度の対話で、そうした私のことを掴み取れない人には、どんなに技術が優れていても決して服を注文することはありません。また、自分が如何に良い生地だと思っても、私の好みでない、或いは着ないタイプの生地を強く勧められる、ということが大嫌いなのです。
服を作る時に、私と仕立て屋さんの関係は、王様と召使いの関係だと思っています。別に、横暴なこともしませんし、理不尽な我儘も言いませんが(笑)、召使いの分を超えた発言や振る舞いは、私の最も嫌うところです。顧客を持つ、所謂客商売には、顧客の前で弁えるべき分というものがあり、日本の仕立て屋さんには(勿論、総じてということではなく、素晴らしいところもありますが)、その辺りをよく理解されていなかったり、誤解されている方が多いように思います。

私が服を任せている仕立て屋さんは、身嗜みをはじめとして、顧客を持つ人間としての行動や物言いは、私に関する限りパーフェクトと言ってよい人なのです。
服装は、きちんとしていますが決して出過ぎず、私が欲しない、必要としないものを勧めたことがありません。
また、上着でも、ウエストコートでも、トラウザースでも、私の手が自然に行くところに釦があるなど、顧客が服を着ていることを忘れ、自然に振る舞う為の、観察と工夫を怠らず、常に続けている人です。
所謂、仕立て屋さんの専門技術の領域に属することでは、彼を上回る仕立て屋さんもいるかと思います。けれども私は、私の仕立て屋さんが店主として私に接する快さ心地よさ、彼の服を纏った時になれる自然で無意識な感覚がある限り、今お世話をかけている仕立て屋さんとは離れられないでしょう(笑)。
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