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個性と感性、嗚呼勘違い。

私には、常々疑問に思っていることがあります、と申しますか、間違っているのではないかと思うことがあるのです。
それは、自己の感性を磨くことが、個性を発揮することに繋がり、結果として、その人なりのスタイルの完成に至る、という図式が、です。
私は、個性というものは、物理的で肉体的で個人的なもの。つまり、具体的で現実的な、その人だけのものだと思っています。それに対して、感性というものは、精神的で抽象的で社会的なもの、或いは、多くの人との共有概念だと思っています。つまり、個性というものは、思考でもなく、感情でもなく、具体的な行動パターンだと考えているということです。
着る事に関しても、それは全く同じことだと思っています。
Aさんは紺が好き、Bさんはグレイが好き、というのは、一見感性の世界のお話で、精神的なもののように見えますが、だからAさんが紺の服を着る、Bさんがグレイの服を着る、というのは、きわめて具体的かつ現実的な行動で、他人はそれらの行動によって、AさんやBさんの個性というものを認識するからです。

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彼のこういった服装もまた、現実的な試行錯誤と選択の結果です。

感性というものは、人と人との共通概念であって、決して個人的なものではありません。
人の成功を喜ぶ、羨む、また、人の不幸や死を悲しんだり、悼んだりする、それが感性です。それは、成功というものが形はどうあれ、喜ばしい、または羨むべきもの、不幸や死は、悲しい、そして悼むべきものという共通概念があってはじめて成り立つものなのです。
装いの上手な人を、あの人は素敵だ、と認識する感性もまた、そうしたものです。「素敵」という共通概念があるから、そう思うのです。
反対する、感性=個性派(笑)の方達に、具体的な反証を挙げると、感性が個々千差万別で、イコール個性ということはこういうことです。スーツを完璧に着こなしている人を素敵と思う人がいて、また、同じレベルで、髪も洗わず異臭を放ち、そのうえ糞尿まみれの人を素敵と思う人がいるということです。肉親の死を哀しいと思うのと同じレベルで、喜ばしいと思う(対立したり、特定の思惑が有ってではありませんよ・笑)人がいるということです。
感性を、個人固有のものと考えるのはそういうことであって、イコール個性ということになれば、社会というものが機能しなくなってしまうのです。

ですから、経験値なるものがモノを言うことというのは、全て、肉体的、物理的事象なのです。着こなしとて例外ではありません。
経験値がモノを言うということは、反復練習や試行錯誤によって方法が選択されていくということで、一見、感覚的、精神的な感情作用に見えますが、実に具体的な行動の積み重ねなのです。
その人なりのスタイルというのは、こうした動作の繰り返しによって確立するもので、古来日本では、それを「型」と言いました。茶道でも、能でも、完成の域に達すると型がイコール自然とされるのは、このことを示しているのです。

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反復練習の積み重ねの、明確な成果の事例ではないでしょうか(笑)

私が何を書きたいのかと言えば、安易に人の服装の真似をして、しかも上手くいかない人というのは、上記のような事の理解が欠けているのだと思う、ということです。
そして、そういう方の多くは、その原因を感性の違いや優劣という誤解に転嫁してしまうのです。
考えても見て下さい。まず顔、そして体格をはじめ、自分と全く同じという人は、世に一人として存在しないのです。ということは、自分が素敵だと思う人のやり方を(それは服の色や柄などだけでなく、考え方や選択方法なども含めてですが)そのまま単純に真似てもダメに決まっています。
世に、多くの人に素敵だと言われる人は、多くの試行錯誤と反復練習を繰り返してきているからこそ、そうなっているのです。
チェロに一度触れたというだけで、オーケストラの奏者のように弾けるようになる訳ではないのです。昨日、画材屋さんで初めて絵具と筆を買ってきた人間が、人間国宝のような絵が描ける訳ではないのです。
こう具体的に書けば、解からないという方は殆どいらっしゃらないでしょう。しかし、ご自分の服装に関することは如何でしょうか(笑)。
案ずるより産むが易し。習うより慣れろ。自分だけの唯一無二の感性を発揮した挙句、葬儀で一人大笑いするおかしな人になってしまう前に、まず、自分で試行錯誤し、反復練習することをお勧めしたいと思います。

そして、「あなただけの感性により磨きをかけ、自分だけのスタイルを確立しましょう」などという、怪しげなことを言う人達の話は、眉に唾して聞いて頂きたいものです。
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黒き鬣。

11月に入ってから、いただくブラックタイの招待が増えて来ています。クリスマスくらいまでは、このまま多くなってゆくのだろうと思います。

ここ数年、日本でブラックタイの集いに出向くと、帰りにポロポロと幾つか思うことがあるのです。

・ブラックタイのボウタイは、やっぱり拝絹と共地の黒いシルクサテンがいいと思う。
・ベルベットのタイや、色柄のタイは、よっぽどの人じゃないと・・・、いや、まず素敵に見えないと思う。
・拝絹は、グログランよりやっぱりサテンがいい。日本人の髪にグログロランの拝絹&タイは少し重たいし、やっぱり、質のいいシルクサテンは華やかでありながら落ち着いて、気高く見えるように思う。
・ホーズも、赤いのや紫のを履いてらっしゃる方がたまに見えるが、やはり、黒で薄手のシルクが見目よく見えると思う。
・靴は、カーフでもいいけれど、拝絹と側章とのバランスがあるから、やっぱりパテントが基本かな・・・。カーフを履くなら、ツルツルピカピカにまでする必要はないと思うけれど、少し光るくらいにはポリッシングしておかないと・・・、と思う。
・オペラパンプスは、デッカいけれど幅広で甲高で長さの無い足には似合わないと思う。
・アメリカ人の真似をして、キャップトゥを履くのも、白いタイをするのも、アメリカのアパレルハウスが提案したりしておりますが、なんとなく様になって見えないと思う。ローファーは論外。
・日本の男性は、シャツをクリーニングに出して、パリパリに糊付けする人が多いから、シャツのボタンはドレススタッズの方が合うと思うし、そういうシャツに貝釦は合わないように思う。
・日本の男性は、すぐに座る癖を直した方がいいと思う。長くて精々4~5時間が立っていられないようではちょっと・・・、情けないと思う。

以上、「ポロポロ思う」の箇条書きでした(笑)。

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フォーマルウェアは、逸脱しないことが端正さです。

これは、欧州でもそうですが、フォーマルの集まりで素敵に見える人というのは、セットアップの基準を逸脱しない人が95%以上ですね。奇を衒ったり、変わったことをする人は、一旦は注目されたりしますけれど、人となりに落ち着きが無かったり、すわりの悪い人が多いです。
そもそも、服装を合わせるというのは、そうした申し合わせをすることによって、その集いの権威を高めたり、より充実したものにするためなのですから、なぜ、それを崩そうという気になるのかが、私には理解できません。招待する側からの、ドレスコードの要求が嫌ならば、参加しなければよいだけのことです。そうはせずに、申し入れは無視するけれども、行くことは行く、というのは、皆が楽しんでいるところに割り込んで、他人の楽しみを壊して悦ぶが如き行為と同様のメンタルが内包されていると思います。
もし、自分の個性の周囲と違う部分を発揮したいのならば、ダンスを上達させるとか、楽しい話題を豊富に話せるとかでやって頂いた方が、はるかに健全だと思いますし、周囲の方達へのサービスになると思います。
それに、個性の発揮をモノ(服装)に頼るという発想が、なんとなく卑小で、さもしい感じを受けるのですが・・・。
この種の服というのは、きちんと着るから素敵なのであって、崩せば崩すほど、そこからは遠くなっていくものだと思うのです。どんなことにも例外は存在し、この種のことにも、そうした制約に縛られない感性を天から授けられた人は存在しますが、それはあくまで例外です。例外を一般化して考えるのは、危険ですし、それ以前に愚かな行為です。

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個性の発揮は装いに頼らず、本人の行動で。

よく、タイやカマーバンドをカラフルなものに変えて、純然たるブラックタイ以外に、ダークスーツなどのシーンで着用するようにしたらどうか、という提案を聞くこともありますが、私は、そうは思いません。
ディナーコート(タキシード)に、色柄のタイや、その共地のカマーバンドなどは、基本的に合わないですし、私の経験では、それをして素敵だった人を見た試しがありません。稀に、様になっている方もいらっしゃいますが、その直後に同じ人に対してこうも思うのです。「タイがきちんと黒だったらもっと素敵なのにな。」と。
色柄のボウタイをしたいのなら、ダークスーツに合わせた方が落ち着きますし、ずっと素敵です。それに、参加するフォーマルシーンが少ないから、着用する機会を増やそうとして無理やり組み合わせるのもどうかと・・・。ちょっと、発想が貧しいのではないかと空しさを感じるのですが・・・。

私は、フォーマルにおける男性の黒とは、人間の男性にとっての、黒い鬣のようなものだと思うのです。
想像して頂きたいのです。
黒い鬣をなびかせる獅子の群れの中に、一頭か二頭、鬣を染めたのやブリーチしたの、はたまた、三つ編みにしたのなんかがいたら・・・、なんとなく笑っちゃいますよね(笑)。雰囲気ぶち壊しです。
ブラックタイにおける崩しとは、そういうことなのです。
私は、私自身も、そして、私の周囲の人達にも、颯爽と黒い鬣をなびかせる獅子でありたい、あって欲しいと願っています。

何を着ても、どう着こなしても。

最近では、弊ブログにも、定期的にご覧頂く読者の方が少なからずいらっしゃって、大変ありがたく思っております。この様な、拙い備忘録的ブログが、どなたかのお役に立っているならば、嬉しい限りでございます。
また、スーツやジャケット等の着方や手入れの仕方について、多くのご質問のメールを頂戴するようになりました。
今回は、最近多くのご質問を頂く、着るものの選択と着方について、私なりの簡単な意見を書かせて頂きます。
着るものの選択については、銀行とかお役所などの、所謂カタイお勤めの方から、派手な・・・、例えばピンクのシャツやタイは避けるべきかといった類のお話、また、着方については、お仕事のカタイ・ヤワラカイに限らず、普段着たことの無いものにチャレンジしたいが、経験が無いだけに失敗するのでは?と不安、といったお話が最も多くありました。

私の意見は、「お好きになさればよろしいでしょう。」です。但し、ご自分が相手の立場に立って、不快と感じることはなさらないこと、これに尽きます。

それだけでは、些か乱暴な申し上げ様ですので、以下、補足として書かせて頂きます。
どんな人でも、服装をみっともなく、みすぼらしくしたいと思う方はいない筈です。服装に於いて、何かのチャレンジをしたい、と思うことは、そういった向上心の顕れとも見ることが出来、決して悪いことではありません。
しかしながら、自分の服装について興味や疑問を持ち始めた人々には、それを商売にする人や、ゴルフの教えたがりの先輩達のお話の様な「罠」が待ち受けています(笑)。
どこかでお聞きになったことが無いでしょうか? 日本の政治家や経営者の服装が、如何に出鱈目で、世界のVIP(笑)に馬鹿にされている、というようなお話。本当だと思いますか?
確かに、政治家や、役人、経営者の服装の「多く」は、褒められたものではないと思います。しかしながら、馬鹿にされている、というのは嘘になります。「なんか妙だな。」とか「変わった奴だな。」程度の認識でしょう。ちょうど、外国人の観光客が、着慣れない和服を着ているのを見た日本人が、心の中で思う評価と同じレベルでしょう。そういうところを、服飾を商売にする人達や、所謂、服飾ゴロの人達は、自身のコンプレックスを少々投映しながら、商売のために歪曲し、拡大するのです。「人はパンのみによって・・・」を「パン無し」にしてしまうのです。異常に外国を持ち上げ、自国を卑下するこの行為が、私は大嫌いです。

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着こなしをはじめとする、生活の素晴らしいスタイルの実例として、しばしば、欧州の貴族王族が取り上げられますが、彼らの多くは、「自分のスタイル」などは持っていません。執事などが、つまり他人が整えた服装を着ているだけの人間が多いのです。スタイルというよりも、「一族もしくは国の伝統の一部」なのです。無論、その中にも、自分の好みを持っている方と、全く無い方、という違いは有りますが、ウインザー公の様な人は例外中の例外です。しかしながら、公は、服装が自らの存在意義を示すものでもあり、自身の関わるビジネスとも密接な繋がりがあったから、あのようにならざるを得なかった、という見方もあります。それに、雲上人達は、相手の事などあまり気にしているものではありません。彼等の集まりに入ると、同じような格好をしていても、微妙に同じになってはいなくて、それで部外者が勝手に委縮してしまう、というケースが殆どです。

要は、「たかが服装」。おおらかに、好きなものを好きなように着ればよいのです。
ピンクのシャツを着て、仕事上差支えが出ても、それは、「自身の選択の結果」なのです。いい目が出ることもあれば、そうでない時も当然あるものです。一つの選択をするという事は、その結果に伴う負の面、つまり、リスクともセットです。そうした「選択」と「決断」の積み重ねが、経験値になるのです。それでは、大人として社会人としてあまりに乱暴だ、とお考えであれば、恋人や連れ合いとのデートの時にでも始められれば如何でしょう? 「あら、ピンクのタイ? 珍しいわね。」とか、言われるようであれば、「まだまだだな。」と思えばいいのです(笑)。
逆説的な意味も含めて、所詮、服装などというものは、その程度のものなのです。つまらない人間を魅力的にしたり、身長を20cm伸ばしたり、醜男をハンサムにする力は無いのです。
それよりも、清潔で草臥れていないシャツ、皺の無い、ピッとクリースの入ったパンツ、きちんと手入れされた靴、そういった「身だしなみ」に気を付けるべき点が多いと思います。他人が、好悪、快・不快を印象付けられる服装の要素と言えば、まずこれでしょう。
どなたかは忘れましたが、スーツ関係の方が、「どのスーツにどんなシャツとタイを合わせ、どんな靴を履くかは、服装について男性が朝考えるべき事ではない。上着にブラシがあたっているか、パンツのクリースはきちんと入っているか、靴はちゃんと磨かれているかを考えるべきだ」という事を書かれているのを記憶しています。きちんとした方もいらっしゃるのだなぁ、と嬉しくなったことを覚えております(笑)。

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さて、「たかが」とくれば、「されど」。そう、如何に頑張ろうとも、努力しようとも、どうにもならない経験値の違いです。服装の素敵さには、そうしたものが絶対的にあるのです。それは、茶の湯の作法の様なもので、長年の経験で身に付いているから、所作も自然で、時に崩れた時のリカバリーも自然、また、意図的なルール破りも自然にできる訳です。『自分の問題とルール』の頁でも書かせて頂きましたが、経験値の無い者が、こうした伝統やルールについてにわか仕込みをし、「守ろう守ろう」と必死になっている姿ほど滑稽なものはありません。決して、無知がよいという事ではありませんが、経験値については過度に意識せずに、なるべく闊達にご自身の経験を積んでゆかれることをお勧めします。これを過度に意識させ、皆さんのお財布の中身を減らそうという人間が、世間にはたくさんおりますから(笑)。
ご自身の選択と、判断と、責任で、気負わず気楽に、自意識過剰にならず、劣等感に苛まれず、楽しく、しかし、思いやりのある優しい服装をなさって頂きたいと思います。そういった配慮は、洋の東西を問わず、何処ででも周囲に通じるものです。
そして、間違っても、多くの洋服屋さんの店員さんのような、元は山出しのアンちゃんの虚言を容れられることの無いようにと、心から祈って止みません(笑)。

アイドルも、カリスマも。

一昔前は、自分が、その人物の真似をするくらい贔屓にする存在を、アイドルと言いました。現在では、カリスマなんちゃらという言い方もあれば、畏れ多くも、「誰それは神!」と神格化されたりも致します。
一般的に、服を誂える日本の男性諸氏には、この傾向が著しく強いということが言えると思います。教養のある方が多いので、アイドルのカリスマのと表だって騒ぎ立てたりはしませんが、行動はその分更にラジカルです。
自分が入れ込む人物と同じ仕立て屋さんに服を依頼するために、わざわざ海を渡って行ったり、その服のディテールを、ミリ単位で仕立て屋さんに再現させようとしたりします。
彼等が憧れる人物は皆、私も確かに素敵だと思います。しかし、こうした行為に熱心な方達の多くは、体型や顔立ちが、憧れた人物とはかけ離れている場合が殆どです。どうせなら、なぜ、自分に似た体型、顔立ちの人物を選ばないのかが、私には不思議でなりません。また、彼等は、肉体を造り上げようという、かつての三島由紀夫のような意欲も希薄で、ひたすら服のディテールでそれをカバーすることを希み、仕立て屋さんは能力という範疇を超えた魔法使いであることを要求されます。身長が170cmもない痩せぎすの人に、190cmで胸囲が1m以上もある人と同じディテールを体格比率で修正した服を作って、同じようになれる訳がありません(笑)。
私は仕立て屋さんで、そうした顧客の方と、お互いの贔屓の人物紹介みたいなことが一種の社交になるのが好きではありません。勿論、私にも好もしく思う公人や芸能人はいます。曰く、公人では、先だっての記事にも書かせて頂いた、ジョージ六世、カミラさんとご結婚なさる前のチャールズ王太子、プリンス時代のウインザー公。芸能人では、ゲイリー・クーパー、ジャック・ブキャナン、フレッド・アステア。などなど。

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それは、まぁ、誰が見ても素敵ですが・・・(笑)

しかし私は、彼等の真似をしたこともありませんし、彼らになりたいとも思いません。自分の在り方というものの完成度を上げるための参考資料、といった書き方が適切かもしれません。ちょうど、手紙でキケロに関した論争をしたポリツィアーノのように。曰く、「あなたは、キケロに関して学んだ私が、全くキケロと似ていないではないかと言う。しかし、まずもって私はキケロではないのだ。そして、キケロを知ることによって私は私自身をより深く知ることが出来たのだ。」これに尽きます。
私は、自分の装いに、アイドルもカリスマもいません。ジョージ六世やクーパーになりたいとも思わないし、なる必要もありません。彼等のように私が素敵になりたければ、私は今以上に私らしく、私そのものにならなければならないと思っています。
自分なりに、自分らしく。どんなメディアでも、日に一回はお目にかかるような言葉ですが、それだけ日本人には苦手とされていることなのでしょう。日本人は、何か実質的な利害が関わり、一旦心を割り切れば現実的なのですが、そうでないと意外と夢想家というか子供のようで、ことに男性は、服装に関してこの在り様が顕著です。解かり易く書かせて頂くと、『好き』と『得手』の区別がついていないのです。「好き」だから似合うとは限らない、この単純な理屈が理解できていないのです。
そして、昨今の人達は、人間のあらゆる義務の中で、最も大切で最も高尚なものから、意識的なのか無意識なのかは解りかねますが、目を反らしているように思えます。自分自身をより良く伸ばすという義務を。
自分と向き合うことを恐れずに、まずは姿見で裸の自分をじっくりと観察するところから始めて頂きたいものです。『好きこそものの上手なれ』とするために・・・。

自分の問題とルール。

男性の装いには、様々な場面において多くのルールが存在します。
ルールを正しく把握して理解するのは、大切なことだと思います。けれども、昨今のアパレル・ショップや、個人の着こなしブログ的なものを散見致しますと、些か、そのルールの運用の仕方を取り違えている、或いは、自己満足を得る為と思われるルールの運用が多く目につくように感じます。
勿論、その人個人が楽しむために装うのは、決して悪いことではありません。しかし、ダークスーツ以上のドレスコードが存在する場面では、その場面の趣旨を尊重すべきでしょう。服装を合わせるということは、同じ目的や価値観で集い、その集いをより充実したものにするためにするのですから、成人男子たるもの、まずそのことを優先すべきだと思います。

また、装いにおけるルールの運用は、個人々々の個性によって、それが微妙に変わるということを忘れてはならないと思います。誰もが同じように運用すればよいというものではないのです。厳守しなければならない者がいれば、アバウトでよい者もいるのです。
具体的に書かせて頂けば、次のようなことです。地方の冠婚葬祭には、都心のアパレル関係者には評判の悪い、参加者全員ブラックスーツに白シャツ白ネクタイ、または、黒ネクタイという場面がよくあります。この場合、多数の装いに合わせるのか、国際的なルールに準ずるのかという議論があり、それぞれの支持者による意見がありますが、どちらも愚見であると申し上げざるを得ないでしょう。なぜならば、当人の個性というものが全く考慮されずに、ルールの運用の成否だけが問題にされているからです。
人間は、一人々々見た目も印象も違うのです。周りと違う服装をしていても、全く周囲に悪印象を与えない人もいれば、ほんの少し変わっただけで、良くない印象を与える人もいます。これは人間関係に、相手にキツイことを言っても憎まれない人もいれば、そういうことを匂わせただけで敬遠される人がいるのと同じことなのです。
前者は、自分の思ったような服装をすればよいでしょう。周囲への配慮として、あまり奇抜な事はしない方が良いと思いますが、ある程度の自分の個性の発揮はあってもよいでしょう。
後者は、周りに合わせた服装を心掛けて、「正しくはこうだ・・・」とか「自分は・・・」という気持ちは押さえるべきでしょう。
本来、こういったことは、ドレスコード云々や、どう装うか以前に、個々が当然把握しているべき事柄で、二十代の若者ならばいざ知らず、三十も過ぎて、自分がどういう人間かもわからない者に、装いのルールがどうだのという話題自体が無意味ですね。
これは、ルールの問題ではなく、その人その人の「自分の問題」なのです。

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さて、その装いのルールですが、日本人は、薀蓄やそもそもルールを好むところがありますから、そういった知識を得ると、その精神的比重を大きくしがちですが、それはかなり野暮なことだと書かなければなりません。
覚えたてのルールを、守ろう守ろうと必死になっている姿ほど滑稽なものはないからです。ルールというものは、身について意識せずに自然に運用できなければ、知らないのと同じことなのです。自然に運用できるようになると、これまた自然に、その人なりのカスタマイズがされていくものなのです。そして、その自然な運用のためには経験が不可欠で、残念ながら、二年や三年で身につくようなものではないのです。稀に、生まれや育ちに関係なく、エレガンスの権化のような方も存在しますが、それは例外です。
ルールを把握した上で経験を積み、周囲から見れば落ち着いて素敵で、場面を乱さないその人なり(家や一族共通ということもあるでしょう)の作法、それをマナーというのです。
そうした作法を身につけている方が、他人の装い方を批判するでしょうか? 自分の装いをあれこれと他人に説明したがるでしょうか? そのような慎みの無い行為をする方はいないでしょう(笑)。
これらが理解されていないと、滑稽で、妙な勘違いが生まれてきます。
例えば、年にほんの数回タキシードを着るか着ないかの者が、フォーマルが云々と述べたり、正礼装がどうとか言っても、それは知識だけの物言いであり、逆に、その知識が正確であればあるほど滑稽になってしまいます。
個性の個人差として前述しましたが、装いも、その本人の生活ステージに合わせて努力し、洗練させ、磨き上げていくべきで、日常、スーツ姿が多いのであればスーツの装いに、セパレーツが多いならばその装いにこそ、情熱を注ぐべきでしょう。もっとも、若者が、「いずれ、毎日のように礼装する人間になるのだ」と、走って行くのであれば微笑ましい部分も多々ありますが(笑)。

装いのマナーというものは、食事のマナーとほぼ同じと書いてもよいかもしれません。それは、この種の事ほど、その人の生きてきた、育ってきた環境を想起させるものはないからです。食べることと着ることは、悲しいかなどうしても「お里が知れて」しまうのです。そして、大人になって知識だけが身について、上手くこなしてやろう、とするから益々いけなくなってしまう。マナーにおける所作とメンタルは、自然に発露されるからこそ美しいので、それにはどうしても、少なくとも少年時代に身につけて経験を積んでいなければ、まず難しいのです。
自然な所作ができれば、そこに自然に、その人なりの癖や習慣が微妙に溶け込んで、ルールに則った、けれどもその人だけの所作が出来上がるのです。それが、スタイルというもので、その人その人の個性によって、それが「ほんの少しの外し」に見えたり、「一滴の毒」に感じさせたりするのです。そうした部分だけをやたらとクローズアップして、意識的にやろうとしたり、観察して外しだの毒だのと表現する者は、自分なりの自然な所作が身に付いていない人間なのだと自ら喧伝している、とも言えるのではないでしょうか(笑)。
ポール・キアーズの著書の巻頭の文章で、「魚用のナイフで肉を切ろうと、シャンパングラスで赤ワインを飲もうと、そんなことは本人の自由。そんなことで、人を批評するのは間違っている。しかし、ワイルドが書いたように、見た目で人を判断しないのは愚か者だけである、という言葉もまた事実である。」というのは、上記のようなことを婉曲な言い回しで言っているのです。

私は、今回のこのページの内容を書くことを迷い、躊躇しました。それは、不可能とまでは言わなくとも、どんなに努力してもどうにもならない、というネガティブな部分が存在し得るからです。
以前のページにも少し書かせて頂きましたが、それは、「学生生活が終わって初めてスーツを着る」ような人が多い日本人には、決定的に不利な内容なのです。
しかし、今回敢えてそれを書かせて頂いたのは、自己認識を冷静にできれば、不可能のパーセンテージはかなり下がる、と思ったからです。
知識に逃げず囚われず、これも以前のページに書かせて頂きましたが、立場や得た物が、容姿や人間的魅力をカバーするなどと独りよがりな甘えをせず、自分に有るものと無いものをきちんと把握した上で、穏やかに堂々と「三十路の手習い」を完遂し、「素敵なネクタイですね」ではなく、「~さんていつも素敵だよね」と言われる日本の方たちがどんどん増えていくことを、私は心から願っております。
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