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靴磨きで自分磨き?

90年代の終わり頃から、巷の靴オタクの間で、「靴を磨け、そして自分を磨け。」という台詞が流行っています。欧州の或る靴屋さんの女性ご当主がのたまったといわれる、"名言(迷言?笑)"なのだそうですが、私は眉に唾して、胡散臭いなぁ~と思って聞いています。

靴を磨くこと自体は良いことだと思います。自分の周りにいる人への礼儀として、そして、自分の持ちものを思い入れをもって大切にすることとして、それ自体は良いことですが、それを人格や精神の修養と結びつけるのは全く疑問ですね。

自分の行動を人格や精神の鍛えと出来る人は、シャツを洗ってプレスしようが、スーツにブラシをかけようが、自分の子供の相手をしていようが、トイレで考え事をしていようが、それを自分磨きにすることができるでしょう。なにも、靴磨きに特化されるべきことではありません。また、それらの行動を何とも結び付けること無く、淡々とただそれだけのこととして消化することが悪いことという訳ではありませんし、そういう方の靴の磨き方が全て稚拙だということもありません。

世の中には、自分で靴など磨かない、という方も沢山いらっしゃいます。素晴らしい磨き方が出来る方を独占的に雇える方達が。そういう方達は、人間としてお話にならないのでしょうか?そんなことはありません。私自身、そんなことが出来るほど裕福ではないので自分で磨いておりますが、もし、突然ものすごく裕福になったら、気に入った仕立て屋さんと靴屋さんを自分専用に雇い、その管理を全て任せるでしょう。そうかといって、自分で靴を磨くことは嫌いではありませんし、アレコレと工夫をすることは面白くもあります。

そもそも、「靴を磨け、そして自分を磨け。」というこの言葉は、イタリアの「男を磨く前に、靴でも磨け」という格言の流用くさいんですよね。おっしゃったという靴屋さんのご当主も、イタリアが長かったそうですし。靴や服のデザインもそうですが、ラテン系の方はコピーやアレンジが得意ですからね。そして私が、最も怪しげに感じるのは、このご当主が顔が露出することを極端に嫌うということです。ラテン語には、「Vultus est index animi(顔は魂の指標である)」という格言があります。靴磨きが自分磨きであると言うのならば、それを提唱する方が、魂の指標である顔を隠すと言うのは、大いに解せないことです。仮に、老齢なのでということであれば、自分の人生の年輪に自信が無いということですから、益々、他人の「自分磨き」を云々する資格は無いでしょう。まぁ、女性でらっしゃるということで、多少採点を甘くしてもかまいませんが(笑)。

キャッチフレーズとしては悪くないと思いますが、やはり私はそこにまず、売らんかな、擦り込まんかな、が有るように見えてしまうのです。それぞれの方達がそれぞれ自分らしく、自分の周囲の人と、自分の身に着けるものを大切に思う気持ちで手入れをすれば、それが一番自分磨きに繋がるのではないでしょうか?変なキャッチフレーズに踊らされると、真っ直ぐな気持ちも歪んでしまいます。
「影響を受けるということは良いこととは言えない、なぜならその瞬間に影響を与えた人の影となってしまうからだ。」というようなことを作品の中で書いたのはオスカー・ワイルドでしたね。それが、素晴らしい人の影響ならば、敢えて受けたいという気持ちも理解できますが、恥ずかしくて人に顔も見せられない、という方ではねぇ・・・・・。
そっと、かの女性ご当主に耳打ちして差し上げたいものです、「眼を醒ましなさい、そして歯を磨きなさい。」と(笑)。
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うろたえないメンタル。

男性が服を装う時に最も大事なこととは何でしょうか?
清潔感、バランス、ほんの少しの遊び心等々、世間では色々なことが云われますが、最近では、やはり「普遍性」ではないかと思うのです。普遍性といっても、いつも同じものを身に着けているということではありません。自分自身の好み、趣味、美意識、価値観といった精神的なものを、社会的な傾向や流行に流されることなく大事に育てる、ということなのです。

これは、紳士服の原点がなぜ英国なのか?ということにも関わりがあるかと思います。現代の紳士服の起源が英国にあるから、という理由も無論有るとは思いますが、私はむしろ英国の紳士服に精神的な普遍性があるために、常に他の国々から指標とされるのではないかと思うのです。

英国の貴族階級では、現在でもその子息がもの心つくとまず、「Don't panic.(うろたえるな)」ということを繰り返し訓えられ、精神に擦り込まれます。これは、安易に流されたりぐらつかされる価値観を持ってはいけないということであり、リーダーとして、一族の長として、一族や国家の特色、美点、価値観を自分の中で正しく理解し、永きにわたって大切に育てよ、ということにつきます。ですから、彼らの装う服には、例えば同じスーツにしても、先祖から自分に繋がるその一族特有の特長が見られ、それは、代々の人間が一族の特性、個性に合わせて長年をかけて醸成していくから出来上がるのです。

昨今、服飾関連のマスコミでよく見かけるテイストとかスタイルという言葉、それを構築するというのは、本来こういうことを言うのであって、決して着こなし上手を指す言葉ではないと思います。マスコミに付和雷同して、オーバーサイズのダボダボが流行ればそれを、とんがった靴とピタピタの短いパンツが流行ればそれを、と流されているようでは、一生かかってもそんなものは出来上がらないでしょう。
色々と経験値をつめばレベルが云々、というのはものを売る側の罠であって、肝心なものが抜けているのではないでしょうか? それは、「その人の外観と生活水準を核にして」ということです。個々の価値観というものは万人の価値観ではないから、個々の価値観に特化したものは万人には受け入れられません。世の中の標準的な体型というのは、あくまで統計的なもので、売る側が設けた基準ですから、個々の体型や個性に特化したものは、当事者以外は誰も身に着けられません。

逆の言い方をすれば、もしがとんがった靴が好きで、自分に合うものだと考える方ならば、この先数十年、世の中の流行がそこから外れても、ずっととんがった靴を履き続けることによって、その人らしさというものの一部が醸成されていくでしょう。しかしそれは、必ずしも結果に結びつくというものではなく、あくまで、そうしたことから始まる、というに過ぎません。人によっては、とても勇気と努力が要る行為と言えるかもしれませんね。

私の好きな言葉に、アイザック・ウォルトン著の釣魚大全の巻尾にある、「Study to be quiet.(穏やかなることを学べ)」というのがあります。いきなり何を書くのかと思われるかもしれません。私の友人達は、私がこう言うと笑うのです。多分、私が穏やかでない、口より先に手が出るタイプの人間(笑)だと知っているからでしょう。しかしそれは、この釣魚大全を読んで、この本が書かれた時代を考えると、友人達が考えていることと、私が考えていることが全く違うということが解って頂けるでしょう。

簡単に言えば、釣魚大全は英国史上で稀に見るほどの動乱であった、ピューリタン革命の時代に書かれたのです。そんな時に釣りの本を書いて、穏やかに生きろと言うことは、我が国の過去の大戦時で言えば、「徴兵を拒絶して家で寝ていよう」と言うことに等しいことなのです。現代と違って、動乱時に成人男性に求められる言動は、大変厳しく大きかったのですから。しかも、ウォルトンはやや王党派よりであったものの、ピューリタン派にも王党派にも批判的でした。世の中が二つに割れている時に、そのどちらにも属さないというのは、大変危険で、また、精神力を必要とする行動です。

自分の理想や価値観を守っていくということは、時としてそういうリスクを持つということなのです。そして、それを乗り越えたものだけが、普遍性を持った美意識を醸成できるのです。ウォルトンの釣魚大全は、その内容だけをとっても素晴らしい本だと思います。私の大好きな本です。しかし、血煙の漂う世の中に背を向けて書かれたことに、もっと大きな意味があるのです。この本が世界中で愛され、版を重ねるのは、ウォルトンがリスクを恐れずに、「戦争より釣りのほうが素晴らしい!」と『戦時中』に言い得たからなのです。平和な時になら誰にでも言える言葉ですが、戦時中に言うのは大変な勇気が要るどころのレベルではありません。

私も、ウォルトンのようでありたいと思っています。なぜ、「Study to be quiet.」という言葉が好きなのかをお解かり頂けたでしょうか。

皆様も、自分の愛するもの、大切なもの、素晴らしいと思うものを信じて、自分に合わない世の中の押し付けや、売る側の利のためだけの流行には迎合せずに、きっぱりと背を向けて頂きたいと切に願います。動乱時に「穏やかでいる」ほどのリスクは無いのですから(笑)。何があってもうろたえない、自分なりの価値観と美意識、持ちたいものですね。肩ひじ張って、それを、テイストだのスタイルだのと安っぽい言葉で、人前で軽く語らずに・・・。

プッタネスカのコーディネイト。

私の好きなパスタ料理に、プッタネスカというのがあります。トマトベースで塩味はアンチョビ、それにオリーブとケイパーを使うシンプルなパスタです。プッタネスカ(puttanesca)は日本語にすると娼婦風。なぜ、娼婦風なのかということになると、忙しくて時間の無い娼婦が、客の来る合間にありあわせの材料で簡単に作っていたから、とか諸説あるのですが、シンプルな素材構成に反して非常~に複雑な味です。複数の塩味、複数の酸味、そして複数の香りが渾然として、なんとも微妙な風味になるのですね。私は、このプッタネスカを食べると、その店のレベルが解るとすら思っています。

基本的に和食党で、典型的な吾妻男の私ですが、行きつけの地元のお店でこのプッタネスカを食べると、ほ~っ、とリラックスして落ち着けるんですね。食堂代わりにお世話になっているこのお店のプッタネスカは、リングイネを使うんです。これもいい。小麦の味と香り、パスタの食感がより豊かに感じられるリングイネは、我が国の稲庭饂飩にも通じるところがあると思います。

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ソースに使う素材も、すべて細かく微塵切りにされていて、オリーブがゴロゴロ、なんてことはありません。そもそも、素材がカットされていないと、それぞれ特長の強い香りと味が渾然一体とならないような気がします。スパゲティーでは、このソースに負けてしまうかもしれません。一見、単純なトマトのパスタに見えながら、実に複雑な味と香り。まさに、イタリア男のお洒落のようなパスタです。赤ワインが抜群に合います。私のお勧めは、マルベック種の葡萄で醸された濃い目のやつ。

涼しくなってきたら、このパスタ料理の風味のようなコーディネイトもしてみたいな、などと思いを馳せながら、自分の数倍アルコールに強い連れ合いに腕を取られて、ほろ酔い加減で家路を歩くのは、これもなかなか幸せなものです。
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