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風化してゆく猫。

最近は、車で仕事に出かける日が多いのです。
多摩川のほんの少し西側から、国道246号線で都心に出ます。
先日のある朝、多摩川の少し手前の交差点付近の中央分離帯脇に、明らかに車に轢かれたとわかる動物の死骸がありました。
仰向けになったそれは、体の大きさ、体毛の感じ、頭蓋骨の形状から、明らかに猫のものでした。
鮮紅色の肉塊から、ハッとするほど白い肋骨が何本も屹立しており、見るも無残なものでした。
あくる日も、そのあくる日も、猫の死骸はそのままでした。車通りが激しいため、誰も動かしてやることができないのでしょう。
日が経つごとに、鮮紅色の肉塊は茶色になっていき、白い骨もまた茶色くなっていき、肉と骨の区別がつかなくなっていきます。
そして、それが見えない夜には、大型のトラックなどが何度も死骸を轢いてゆくのでしょう。どんどん、平らな物体になっていきます。同時に、水分が抜け、乾いた感じになっていきます。
猫を愛する者には、たまらない光景でした。
我が家には二頭の大きな猫がおりますが、もし、これが彼等だったらなどと、想像するのも恐ろしい光景でした。
さらに日が経ち、今ではアスファルトにへばりついた、何やら乾燥した革らしきもの・・・、になっており、日ごとに小さくなっていきます。乾燥して平らになった死骸を、更に車が轢き、少しずつ塵のように細かく散っていくのでしょう。

我が家の猫は、私がこれを書いている今も、一頭は私の膝の上で寝ています。その安らかな、安心した寝顔を見ていると、彼等が日々元気で、平和に生きていることに、自分がとても癒されていることを実感します。

しかし、猫はどうなのでしょう?
風化していくあの路傍の猫と我が家の猫たち、いったいどちらが幸せなのでしょう?
確かに、我が家の猫たちは、車に轢かれる心配はおろか、餓える心配すらありません。けれども、一生を家の中を全世界として生きなければならないのです。しかも、私たち人間のエゴのために・・・。

風化しつつあるあの猫の死に様は、人間の感性に悲しく映るものでした。
しかし、かの猫は、死にあたって一瞬の驚きしか感じず、痛みも苦しみもほとんど感じぬ間に死んでいったでしょう。
飼い猫は、その安全な生活ゆえに、いずれ、病気や老齢などの別な苦しみと向きあっていかなければならなくなります。

いったい、どちらが幸せで、どちらが不幸なのでしょう。
「嵐の海で溺れ死ぬ可能性が高いけれど、何処までも泳いでいける自由」と、「殺される心配は無いけれど、牢獄の庭を歩く自由」、どちらの自由を得るのが幸せなのでしょうか?
私自身に答えを問えば、間違いなくそれは前者なのですが・・・。
にも拘らず、我が家の猫には、安全のために制約ある自由を供し、であるのに幸せであって欲しいと願う。
矛盾とはまさにこのことを言うのでしょうか。

などともの想う私に、「そんなことを考えていては幸せにはなれないよ」と、膝の上で猫が大きな欠伸をします。
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