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黒き鬣。

11月に入ってから、いただくブラックタイの招待が増えて来ています。クリスマスくらいまでは、このまま多くなってゆくのだろうと思います。

ここ数年、日本でブラックタイの集いに出向くと、帰りにポロポロと幾つか思うことがあるのです。

・ブラックタイのボウタイは、やっぱり拝絹と共地の黒いシルクサテンがいいと思う。
・ベルベットのタイや、色柄のタイは、よっぽどの人じゃないと・・・、いや、まず素敵に見えないと思う。
・拝絹は、グログランよりやっぱりサテンがいい。日本人の髪にグログロランの拝絹&タイは少し重たいし、やっぱり、質のいいシルクサテンは華やかでありながら落ち着いて、気高く見えるように思う。
・ホーズも、赤いのや紫のを履いてらっしゃる方がたまに見えるが、やはり、黒で薄手のシルクが見目よく見えると思う。
・靴は、カーフでもいいけれど、拝絹と側章とのバランスがあるから、やっぱりパテントが基本かな・・・。カーフを履くなら、ツルツルピカピカにまでする必要はないと思うけれど、少し光るくらいにはポリッシングしておかないと・・・、と思う。
・オペラパンプスは、デッカいけれど幅広で甲高で長さの無い足には似合わないと思う。
・アメリカ人の真似をして、キャップトゥを履くのも、白いタイをするのも、アメリカのアパレルハウスが提案したりしておりますが、なんとなく様になって見えないと思う。ローファーは論外。
・日本の男性は、シャツをクリーニングに出して、パリパリに糊付けする人が多いから、シャツのボタンはドレススタッズの方が合うと思うし、そういうシャツに貝釦は合わないように思う。
・日本の男性は、すぐに座る癖を直した方がいいと思う。長くて精々4~5時間が立っていられないようではちょっと・・・、情けないと思う。

以上、「ポロポロ思う」の箇条書きでした(笑)。

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フォーマルウェアは、逸脱しないことが端正さです。

これは、欧州でもそうですが、フォーマルの集まりで素敵に見える人というのは、セットアップの基準を逸脱しない人が95%以上ですね。奇を衒ったり、変わったことをする人は、一旦は注目されたりしますけれど、人となりに落ち着きが無かったり、すわりの悪い人が多いです。
そもそも、服装を合わせるというのは、そうした申し合わせをすることによって、その集いの権威を高めたり、より充実したものにするためなのですから、なぜ、それを崩そうという気になるのかが、私には理解できません。招待する側からの、ドレスコードの要求が嫌ならば、参加しなければよいだけのことです。そうはせずに、申し入れは無視するけれども、行くことは行く、というのは、皆が楽しんでいるところに割り込んで、他人の楽しみを壊して悦ぶが如き行為と同様のメンタルが内包されていると思います。
もし、自分の個性の周囲と違う部分を発揮したいのならば、ダンスを上達させるとか、楽しい話題を豊富に話せるとかでやって頂いた方が、はるかに健全だと思いますし、周囲の方達へのサービスになると思います。
それに、個性の発揮をモノ(服装)に頼るという発想が、なんとなく卑小で、さもしい感じを受けるのですが・・・。
この種の服というのは、きちんと着るから素敵なのであって、崩せば崩すほど、そこからは遠くなっていくものだと思うのです。どんなことにも例外は存在し、この種のことにも、そうした制約に縛られない感性を天から授けられた人は存在しますが、それはあくまで例外です。例外を一般化して考えるのは、危険ですし、それ以前に愚かな行為です。

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個性の発揮は装いに頼らず、本人の行動で。

よく、タイやカマーバンドをカラフルなものに変えて、純然たるブラックタイ以外に、ダークスーツなどのシーンで着用するようにしたらどうか、という提案を聞くこともありますが、私は、そうは思いません。
ディナーコート(タキシード)に、色柄のタイや、その共地のカマーバンドなどは、基本的に合わないですし、私の経験では、それをして素敵だった人を見た試しがありません。稀に、様になっている方もいらっしゃいますが、その直後に同じ人に対してこうも思うのです。「タイがきちんと黒だったらもっと素敵なのにな。」と。
色柄のボウタイをしたいのなら、ダークスーツに合わせた方が落ち着きますし、ずっと素敵です。それに、参加するフォーマルシーンが少ないから、着用する機会を増やそうとして無理やり組み合わせるのもどうかと・・・。ちょっと、発想が貧しいのではないかと空しさを感じるのですが・・・。

私は、フォーマルにおける男性の黒とは、人間の男性にとっての、黒い鬣のようなものだと思うのです。
想像して頂きたいのです。
黒い鬣をなびかせる獅子の群れの中に、一頭か二頭、鬣を染めたのやブリーチしたの、はたまた、三つ編みにしたのなんかがいたら・・・、なんとなく笑っちゃいますよね(笑)。雰囲気ぶち壊しです。
ブラックタイにおける崩しとは、そういうことなのです。
私は、私自身も、そして、私の周囲の人達にも、颯爽と黒い鬣をなびかせる獅子でありたい、あって欲しいと願っています。
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Wardrobeと汁かけ飯。

身に着けるものは、「全て見えるところにあるのがよい」と仰る方が多くいらっしゃいます。まさに、おっしゃる通りだと思います。
ワードローブはそうあるのが望ましく、出来れば陽の光と、薄暗いスペースがあれば、黒と濃紺を間違うことも無く(笑)、なおよいと思います。
しかし、各アイテムを、スーツ、タイ、シャツ、ホーズ、靴と組み合わせて、それごとにセットアップしておくのはどうでしょう? 私は、あまり良いことだとは思いません。そうしておかなければ、そうした組み合わせをチョイスすることが出来ないのだろうか?と疑問に思ってしまいます。
こうした話を聞くと、私は、戦国大名の北条氏康が、息子氏政の汁かけ飯の食べ方を嘆く話を思い出して、ちょっと切なくなってしまいます。

汁かけ飯のエピソードというのは、以下のようなお話です。
北条氏康が息子と食事をした時に、食事の終わりに二人で汁かけ飯をしました。今では、汁かけ飯や茶漬けは、あまり品の無い飯の食べ方だとの印象もありますが、戦国期の武家では、汁かけ飯と湯漬けは、ごく当たり前の飯の食べ方でした。
氏康は、息子の氏政が、飯に汁をかけるのに一回で適量にできず、二回目で適量になって食べ始めたのを見て、「やれやれ、自分が死んだらコイツの代で我が家は終わりだろう。」と嘆いたといいます。
後に家臣が、その理由を氏康に尋ねると、
「物心ついてから今までに、食事は毎日二回(当時は一日二食)、何回となく繰り返してきているのだ。それなのに、よい年齢になっても自分が飯を食べるのに必要な汁の量さえ身に付かないようでは、あいつの代で我が家は潰えるだろう。」
と答えたといいます。
事実、小田原北条氏は氏政の代に豊臣秀吉によって滅ぼされ、氏政は切腹させられてしまいます。

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北条氏康座像

身に着けるものをセットアップしておく、というのは、汁かけ飯にする汁を計量するようなものです。多くの人は二十代前半から、人によってはもっと若い時から、日常身に着けるのですから、どのアイテムを先に決めるかは別として、一つのアイテムを選択したら、無意識に近い状態で残りのアイテムが決まるようでなくては、私は、それが身に付いているとは言えないと思います。
また、例えば、一着のスーツに対して、その人のベストの組み合わせというのは、どんなに多くても、通常五通りは無い筈ですので、少なくとも三十歳を過ぎたら、たまの例外はあるにしても、その日の服装を決めるのにアレコレ悩んだり、時間がかかるというのは、成人男子として未熟であるということ以外なにものでもないと思います。

私は、以前の頁にも書かせて頂いたように、スーツ、シャツ、ネクタイやホーズ、靴の選択に悩むのは、出掛ける前の朝や、前日の夜に男がとるべき行為ではないと思っています。
これも、何度も書きますが、もっと他にやるべきことがあると思っています。身に着けるもので言えば、シャツはきちんとプレスがされているか、トラウザースのクリースはきちんと入っているか、上着にブラシはあたっているか、靴はきちんと磨かれているか、の方がはるかに比重が重いと思います。
身に着けるものを、あれやこれやと考える時間が楽しくて仕方がないんだよ、という方もいらっしゃるでしょう。そういう方は、好きでやっていらっしゃるのですから、どうぞお気の済むまで楽しまれたらよいと思います。
けれども、コレは私の偏見かもしれませんが、それでも私はそうした行為が男らしい行為とは思えません。

勘違いして頂いては困るのですが、アイテムの選択や組み合わせがいい加減でよいと言っている訳ではありません。よい年齢をして、自分にとってベストな、またはそれに近い選択や組み合わせが決まっていない、理解できていないのは、未熟だと言っているのです。それは、自分の事が理解できていないということであって、若ければ言い訳もできますが、そこそこの年齢になっていれば、「いつまで自分探しをやっているの?人生は短いよ。」ということになります。
精神的に、一生をかけて研鑽していくということは厳然と存在すると思います。そうしたことが、その人の装いに影響することも、また大いにあるでしょう。しかし、それを毎日の着る服や履く靴の選択に右往左往することと重ね合わせるのは、間違っていると思いますし、あまりにも卑小だと思います。

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自然な所作や振る舞いは、日々の鍛錬の到達点の一つと言えるかもしれません。

こうしたことは、会食をした時にも時折感じさせられます。
最近の方は、美味しいお店や高級なお店をよくご存知で、食いしん坊の私は、そうした人達と会食するのがとても楽しみです。
そうした知識や情報が敷衍する一方で、きちんと箸が持てる人の数が反比例しています。今では、十人と食事をすれば、六人はまともに箸が持てない人、という統計です(笑)。
私は、あまり神経質な人間ではないので、そうした箸の持ち方を見て、不快になることはありませんが、「こんな美味しい食事を理解できる感性があるのに、お箸の持ち方をきちんと教育されなかったのかかなぁ。」と気の毒に思うと同時に、ちょっぴり日本人として恥ずかしいとも思うのです。
お話は少しずれますが、お子様をお持ちの親御さんは、どうか、きちんとお箸を持てるように教えて差し上げて下さい。毎日のことだというだけで、難しいことではないと思いますので。

所作や振る舞いというのは、あくまで自然でなくてはなりません。
こうした話を聞いたからと、人前で箸の持ち方に全神経を遣い、周りの人から気の毒に思われるようでは本末転倒ですし、いかに積み重ねが大事かということだと思います。
つまり、飯に汁をかけるという毎日行う何気ない、つまらないと思える行為にも、おのれのインテリジェンスを動員してこれを行え、ということなのでしょう。戦国大名というのは、毎日そうした緊迫感の中で生きてきたということでしょうね。
日本の伝統技能には、鍛錬と積み重ねによって無意識になり、所作と振る舞いが自然になる、というものが多くあります。茶の湯然り、能然り。
サー・ハーディーによる、私の好きな装いに関する言葉、

A man should look as if he had bought his clothes with intelligence,
put them on with care, and then forgotten all about them.

は、そうしたことをおっしゃっておられるのだと思います。
勘違いされた解釈をしておられる方、多いと思うのですが・・・。

利休とブランメル。

私は、心静かになりたい時に、よくお茶をたてることがあります。
幼少期、じっとしていられない子供であった私は、色々な習い事をさせられ、その多くは、ご教授くださる方達と諍い、続きませんでしたが、何故か、茶道だけは長く続けられました。おかげさまで、名取りを頂くまでになりましたが、私のような子供が、茶道を続けられた理由として、茶道には食事やお菓子が付き物であるということが最大の理由であったことは否めませんが(笑)、その独特の世界観、空気、音、そして、私がなかなかできない所作を、自然に易々と、しかも美しくこなす大人たちに魅された、ということもまた大きかったのです。

日本人で、千利休をご存知ない方は少ないと思います。
侘び茶を確立した人物、茶道を我が国の伝統文化として定着させる基となった人物として、茶道を嗜む人間からは、流派を超えて半神的な扱いをされますが、大茶人と言われる人物は他にもいたというのに、なぜ、利休だったのでしょうか。
唐物や名物といった贅沢な茶器に頼らずに、装飾性を否定し、ある意味禁欲主義的ともいえるやり方で、侘び茶の世界観を表現し得たことなどを理由に挙げる方も多いのですが、私は、それでは説明しきれないものがあると思っています。

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千宗易(利休居士)座像

元々、千利休は、織田信長の抱えた茶人であって、津田宗及、今井宗久とならんで、天下の三宗匠とよばれる茶頭でしたが、この三人の中では末席に近い扱いでした。それが、豊臣秀吉の世となって、秀吉に引き上げられて、ほぼ独占的に彼の茶頭となり、茶の湯に関する唯一のアドバイザーとなりました。千利休の利休というのは、秀吉が仲介し、正親町天皇が勅許した「居士号」です。
秀吉から、「天下一の茶人」と号されたこと。利休の卓越性、天才性、そして工夫、研鑽が、それらをして、茶道=千利休というイメージになったのでしょうか? しかし、私はいずれも、時の流れの長きに渡って、道と名の永続性を得るためには小さ過ぎるものであると思うのです。
利休は、晩年に秀吉と対立、終には切腹を命じられて二人の関係が終わるのは周知のところですが、私は、この対立にこそ、利休が他の茶人達と違い、後世に道と名を遺す大きな理由があると思うのです。

現在でも、文化事業には時間と金がかかります。そのために、多くの芸術家などの表現者は、経済的に富裕で、世の中への影響力も大きい人間をパトロンとして求めます。国家的な事業となれば、必要な力はますます大きく、利休の活動は、秀吉のバックアップ無しに実現することは有り得なかったでしょう。実際、利休以外にも、多くの茶人や画家などが、大名のお抱えとして活動を保証されています。
そして、利休が他の茶人たちと違っていたのは、こと茶道に於いては、その恩人でありパトロンである秀吉に対しても、一切の妥協をしなかったという一点です。この時代、パトロンと正面切って対決した人物は、他にありません。せいぜい、ひとり毒づいて、山野に隠れ住むくらいのものでした。
秀吉が茶室で戯れをして、利休がそれを無かったこととして平然と無視したのは有名なエピソードですが、これ以外にも、秀吉に対して利休は、茶の湯に関しては、「あなた如きが、私と対等にものを言ってもらっては困る」という態度を取り続けます。侘び茶の観念も、豪華絢爛、金ピカ派手派手の秀吉のやり方を対比として、そうした表面的な贅沢よりも、もっと素晴らしい内面世界がちゃんとあり、それが私の侘び茶であるというのを、利休の創した茶室が物語っているように思えます。意地の悪い見方をすれば、利休は、最初から、その侘び茶の観念が表現したいがために、秀吉を成金の俄か茶人に仕立て上げた、ともとれます。

ここまで読んで頂いた皆様は如何でしょうか? ご自分のパトロン、良き理解者であり、スポンサーでもあり、よい人ではあるが、その分野に関しての理解度、研鑽は今一つという人物に、満座の中で面と向かって、「あなた、私の前で解かった風な口きいてもらっちゃあ困りますね」と言えるでしょうか(笑)。
私は、揉め事を推奨して書いている訳ではありません。書きたい事、言いたい事は、自分の追求するものに対する姿勢、気概なのです。
では、皆様が、傍観者の立場からご覧になったら如何でしょう。「御用学者」、現代では、「提灯〇〇」といった言い方もありますが、これは、かなりの皮肉を含んだ言葉です。アイツは、誰々がいてくれたから、ああ成れたんだ。そんな、おもねる人間だと思われている者の表現するものは、いかに素晴らしくても、道などとしては遺らないでしょうし、その人の名前もその他大勢に埋もれていくでしょう。
己の追求する分野に関しては、庇護者と言えども妥協せず許さない。これは、実は表現者にとっては、キモといっていい重要事項なのです。

しかし、そうなると、パトロンも伝家の宝刀を抜かざるを得ません。「どっちが親分か解からせてやる」ということですね。ことに秀吉とっては、茶の湯=己の、つまり日本の政治の一部ですから、自己の権威低下は絶対に避けねばなりません。秀吉の利休に対する難題は、こうして突き付けられたものです。勿論背後に、堺と博多の商人の主導権争い。秀吉配下の、尾張派と近江派の勢力争い等、色々な事象が複雑に絡み合ってはいますが、根本的には、「俺の羽根の下で、俺の言うとおり、俺が満足するようにきちんとやれ」ということです。
これに対して、利休は、秀吉のそうした本音の部分は無視して、事実と反することには事例を挙げて説明し、感情的な言い訳は一切しませんでした。「どうぞやりたいようになさって下さい、でも、私を思ったようにはできませんよ」という訳です。
この頃になると、秀吉の行動は実に歯切れが悪く、逆に、利休はヤケクソなのかと思う程思い切りよく行動しています。最終的に、利休を殺すことを視野に入れなければならなくなると、秀吉は明らかに困惑し、正妻の北の政所や徳川家康に嘆いたという記録があります。そして利休は、北の政所から、とりなし役を引き受けるから、という知らせが来ても、「私には、おとりなし頂くようなことは何一つない」と、これを拒絶し、自身の死を確定させるのです。

もし、この段階で、利休が命惜しさに秀吉の袖にすがったら、やはり、利休はその他大勢になってしまっていたことでしょう。これも、意地の悪い見方ですが、最終段階で、利休は自身の死が侘び茶に於いてどういう成果をもたらすか、ということに気が付いていたのではないでしょうか。
この、自身の死によって利休は、己の「情熱、努力、工夫、研鑽、克己」が自身の命と等価であるか、それ以上のものであると表現し得たのです。よく、「~は、私の命です」という言い方がされますが、こうして、それを地でいく人間は滅多にいるものではありません。
当時の人々も、利休の死の本質がそこにあることは気が付いていたのではないかと思います。だからこそ、茶道は時を超えて、日本の伝統の流儀の一つとして確立し、千利休の名を現代の私達にまで広く知らしめているのだと、私は確信しています。

私が、本質的に同じタイプの人物だと感じる人間が、英国にもおります。ジョージ・ブライアン・ブランメルです。
今日に至るまで、男服の基本概念を確立したといわれるブランメルは、その身嗜みによって、時の英国々王ジョージ四世に見出され、王の側近となりましたが、やはり、その身嗜みに関しては、パトロンであったジョージ四世に対しても妥協せず、時に辛辣でありました。肥満した王に、「おい、ビッグベン、従者を呼べ」などと言ったのは伝説であり、事実ではないと思いますが、その伝説の元になるような、時にはかなり際どい物言いはしたのではないかと思われます。

ブランメルの時代というのは、それ以前の絢爛豪華で色も多彩、デブが偉そうに見える男服が消えていく頃。ブランメルが纏った衣服は、黒やブルーに白というモノトーンに近い組み合わせで、素材を吟味し、仕立ても身体にフィットするものでした。やはり、身嗜みに「情熱、努力、工夫、研鑽、克己」を必要とする服装で、絢爛豪華を背景にその対比として登場してきた点は、利休と共通するものがあります。
利休も、常に墨染めの衣に宗匠頭巾でしたし、この二人が、「Simple is beautiful.」を胸に持っていたことは間違いないと思います。

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ジョージ・ブライアン・ブランメル

ブランメルもやがて、ジョージ四世と訣別することになりますが、落ちぶれて借金苦に喘ぐブランメルに、ジョージ四世は、カーンの領事職を世話しようと手を差し伸べます。喘ぐという言葉は、ブランメルに失礼でした(笑)。きっと、「別に喘いでなんておらんよ」と言われてしまうでしょう。もし、ここで、ブランメルが差し出された国王の手を握ってしまったら、おそらく、ブランメルの名は今日まで遺らなかったでしょう。差し伸べた手を払い除けた台詞のニュアンスがまた、利休にとても似ているのです。曰く、「そんな役職は存在自体が無駄だ」(笑)。
これで、ブランメルは投獄されることになり、その晩年は、傍観者の立場から見れば、惨めで寂しいものでした。しかし、これによってブランメルは、彼が追及したものが、今日なお彼を始祖とするものだと仰がれる名を手に入れたのです。

利休とブランメル。この二人は、何かを創造する人間、表現する人間に、二つの啓示を与えていると思います。それは、「徒手空拳で、己の能力と才能だけで世に何かを為そうというものは、最大の協力者にこそ妥協してはならない」ということと、「それによって生じる自己の破滅を逃れようとしたら何事も為せない」ということです。自分が大切に思うことを貫くということは、時にそうしたリスクをも伴うものなのです。
そんなものに何の意味がある、と思われる方もいらっしゃるでしょう。確かに、そういう見方もあり、いや、世の中ではそういう見方の方が多数派なのでしょう。しかし、ならばバイロンのような人間が、「ボナパルト(ナポレオン)になるより、ブランメルになりたい」などと評するでしょうか。
やはり私は、日々、つつがなく行きたいと願う反面、利休とブランメルのような生き方もまた、立派なものだな、と感じざるを得ませんし、そういった気概を持って生きたいものだと思うのです。

利休の辞世、
「堤る我得具足の一太刀今此時ぞ天に抛」
お読みになれるでしょうか?
「ひっさぐる わがえぐそくのひとつたち 今この時ぞ天になげうつ」
この辞世に、皆様は何をお感じになるでしょうか?
そして、ブランメルがもし、利休の創った茶室にいたら、そこに何を感じるでしょうか?
霜月初め、薄茶の苦みと甘みを噛みしめながら・・・。
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