徒然の徒然 (1)。
私は思慮深くありたいし、また人はそうあろうと努めるべきだとも思うのです。
自分が無策な事に対して、他人が気の利いて見える事を言うと、熟慮もせずにすぐチヤホヤする。そんな、笛を吹けば踊り出すが如き軽率は行動力とは全く違うと思っています。その種の愚かさを持つ者は、常に他人に危険と不利益をもたらすものです。
人間の持つ最も醜い癖の一つは、平凡に齢を重ねると「自分はこういう人を知っている。」とか、世にその道の大家と云われている人間の言葉を安易に引用して、「この人はこう言っている(だから私は間違っていない)。」と言いたがる事です。
そして、人間の弱さというのは、肥満した人間を見れば理解できます。自分が怠惰で醜いことを熟知しながら、他人にそれを指摘されると、自らの怠惰を反省もせず、勝手に傷つき、指摘した者を非常識とののしり、克服の努力からは常に目を背けるものです。誰しもが持つ弱さではあるが、肥満した人間はそれがとりわけ顕著であるという傾向があります。
自分を表現する事と、自分の弱さを赤裸々に曝け出す事は違うものです。
誰でも突発時には取り乱すことはあるものです。しかし、少し時間がたてば落ち着きを取り戻して事態に対処し、狼狽えないのが大人でしょう。
あそこでこんな話が、あの人がこう言っているという類の危機意識の煽り方は、幼児の囃し立てや泣き言に等しいものです。
自分が、訳もわからず不安で、安心したいがための仲間作りに、人間の危機意識を利用するのは、とても悪質なことだと思います。やる者はどんな時でも、一人でも、百万人とでもやるべきことはやるものです。
「今、何かしてますか?」という問いかけをする者が一番使い物にならない者でしょう。自分の頭で考えて、自分の責任で、自分の身体で行動して欲しいものです。
自分の行動を他者のそれと比較して過大評価しても過小評価してもいけません。行動を比較すること自体が不毛です。一文字を書くことと大岩を動かすことの効果のどちらが大きいかは、本人にはわからないのですから。自分の人生に信念も哲学も持てない者は、たいていこれで自信を失うものです。黙々と自分がすべきと思う事だけを為せばよいのです。
引用で恐縮ですが、私がいつも心で味わいなおす言葉です。『私は、小さな一隅を照らすものでありたい。私の照らす一隅が、どんなに惨めで、小さく、儚くても、悪びれず、怯まず、いつもほのかに照らしていたい。そして私は、人の唇に浮かぶ微笑みを、自分の幸せと感じられる人間でありたい。』
諸葛亮も、仰いました。『吾が心、秤の如し。人(他人)の為に低昂する能はず。』
自分が無策な事に対して、他人が気の利いて見える事を言うと、熟慮もせずにすぐチヤホヤする。そんな、笛を吹けば踊り出すが如き軽率は行動力とは全く違うと思っています。その種の愚かさを持つ者は、常に他人に危険と不利益をもたらすものです。
人間の持つ最も醜い癖の一つは、平凡に齢を重ねると「自分はこういう人を知っている。」とか、世にその道の大家と云われている人間の言葉を安易に引用して、「この人はこう言っている(だから私は間違っていない)。」と言いたがる事です。
そして、人間の弱さというのは、肥満した人間を見れば理解できます。自分が怠惰で醜いことを熟知しながら、他人にそれを指摘されると、自らの怠惰を反省もせず、勝手に傷つき、指摘した者を非常識とののしり、克服の努力からは常に目を背けるものです。誰しもが持つ弱さではあるが、肥満した人間はそれがとりわけ顕著であるという傾向があります。
自分を表現する事と、自分の弱さを赤裸々に曝け出す事は違うものです。
誰でも突発時には取り乱すことはあるものです。しかし、少し時間がたてば落ち着きを取り戻して事態に対処し、狼狽えないのが大人でしょう。
あそこでこんな話が、あの人がこう言っているという類の危機意識の煽り方は、幼児の囃し立てや泣き言に等しいものです。
自分が、訳もわからず不安で、安心したいがための仲間作りに、人間の危機意識を利用するのは、とても悪質なことだと思います。やる者はどんな時でも、一人でも、百万人とでもやるべきことはやるものです。
「今、何かしてますか?」という問いかけをする者が一番使い物にならない者でしょう。自分の頭で考えて、自分の責任で、自分の身体で行動して欲しいものです。
自分の行動を他者のそれと比較して過大評価しても過小評価してもいけません。行動を比較すること自体が不毛です。一文字を書くことと大岩を動かすことの効果のどちらが大きいかは、本人にはわからないのですから。自分の人生に信念も哲学も持てない者は、たいていこれで自信を失うものです。黙々と自分がすべきと思う事だけを為せばよいのです。
引用で恐縮ですが、私がいつも心で味わいなおす言葉です。『私は、小さな一隅を照らすものでありたい。私の照らす一隅が、どんなに惨めで、小さく、儚くても、悪びれず、怯まず、いつもほのかに照らしていたい。そして私は、人の唇に浮かぶ微笑みを、自分の幸せと感じられる人間でありたい。』
諸葛亮も、仰いました。『吾が心、秤の如し。人(他人)の為に低昂する能はず。』
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