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観察力

観察力、これは人間が生きる上でとても重要な要素だと思うんです。
私は観察力の指標としてよくギリシャ神話のパンドラの箱の話を挙げます。
パンドラが、この世の悪しき諸々のものが封じられている箱を開けてしまい、それらはアッと言う間に世界中に拡散してしまって、パンドラが慌てて箱を閉じようとすると、中から弱々しい、開けてくれ、って声がして、仄かな光とともに希望が出て来た。
で、めでたしめでたしのハッピーエンドみたいに思われてたりもするけど、ちょいと待った!箱は、「この世の悪しき諸々のもの」が封じられてたんだよね?だったら、希望を単純にイイものっての、どうよ⁇ ってそう考えられるのが、まともな観察力のある人だと思うんですよね。
ギリシャ神話って殆どのお話が、一つの事柄を必ず表裏二面から見詰める構成になってるんです。
この場合は希望ですが、人間の生き往きは希望を持つことが最悪の結果につながることもある訳です。時に希望は、いいか悪いかの判断をさせる間を与えずに、人を前に進ませますからね。
これは私見ですが、パンドラの犯した罪で最も大きなものは、この希望を解き放ったこと、とも言えると思うんです。


pand001
パンドラ

ま、話しを観察力に戻すと、こいつは冷静な判断力が無いと発揮出来ない力なんですよ。感情的になると一方的になって、表裏二面から物事を見るなんて、できゃしませんわな。
人の揉め事にしても、片方だけから話を聞いただけで判断するのは危険なことです。揉め事なんてのは、どちらかに分が有るにしても、お互いの主張の中間よりややどちらか側ということが多いものですから。
何をするにしても、どんな行動をするにしても、観察力が無ければ求めることの根っこに近づくことは、不可能とまでは言いませんがまず無理だというのが私の持論です。で、観察力を発揮出来るということは、その時点で冷静だということにもなる訳です。
コレは勘違いされがちなんだけど、細部、つまりディテールを捉えるのは観察力ではありません。それは、たいてい熱意という感情に支えられたものが大きいですから、たいした観察力は要らんのです。物事の大極を掴み、本質に近づく力こそが観察力なのです。

雨の目黒川

246から中目黒まで目黒川沿いを歩いた。
雨に煙った目黒川は、河岸の桜に蕾がつき始めていたが、気温は低いのに、軽い腐臭が漂っていた。
昨年の青いLEDイベントを見て感じたことだが、目黒川盛り上げのきっかけとなった河岸の桜は、知る人ぞ知る、だから良かったのではないかと。
現在は、イベントの度に河川清掃をして抑臭剤を流しているそうだが、所詮ドブ川はドブ川だ。川型設計がそも、生活排水を流すドブ川なのだから。
上野や千鳥ヶ淵は、どんなに水が汚れても花見客の振る舞いが悪くても、公園でありお堀だから名所足り得るのだ。
目黒川は、知る人ぞ知るのマイナーポイントだからこそ、存在価値があったのだと思える。もし、本当に桜やイベントで名所化したいのであれば、地元、特に花見をはじめイベントで利益を享受する地元の人間や主催者は、川型そのものをなんとかする運動と努力をするべきだろう。その気があるならば、実現が孫子の代になっても。
根本的課題を放っておいて、表面を糊塗して誤魔化して目を背けるやり方は、今の日本と日本人の象徴のようだ。やる方も、見る方も。
何かというとライトアップするというのも、陳腐で安っぽい。
元来、ドブ川の汚さ醜さを隠すための桜が妙齢になったからと、それにぶら下がって商売をする発想はさもし過ぎる。また、ドブ川沿いに芋洗いの芋になりに行く方も安っぽ過ぎる。
そうしたことには、蒸留酒などの強いスピリッツの販売が禁止され、歩行が困難になるくらい混み始めた頃に気が付くべきだったのかもしれない。同級生の酒販店経営者は、毎年花見の時期に目黒川沿いで催事をしていたが、数年前に、目黒川は終わったと言って止めた。流石に見る目が有ったと思う。
満開の染井吉野の下で、人通りの疎らな川沿いでピンガを呷りながら、ブラジル人と騒いだ頃が懐かしい。
今年の花期は、目黒川沿いには近寄るまい。
和歌に花と詠じられたら、それは桜、という櫻は山櫻で染井吉野じゃないしね。ま、元々は、花と詠じられたら梅なんですが。それに、美しき蒼きドナウで新年を寿いだ人間が、自分の国を代表する花の盛りを、ドブ川で悦んで寿いでいるようじゃ話になりませんしね(笑)。
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