観察力
観察力、これは人間が生きる上でとても重要な要素だと思うんです。
私は観察力の指標としてよくギリシャ神話のパンドラの箱の話を挙げます。
パンドラが、この世の悪しき諸々のものが封じられている箱を開けてしまい、それらはアッと言う間に世界中に拡散してしまって、パンドラが慌てて箱を閉じようとすると、中から弱々しい、開けてくれ、って声がして、仄かな光とともに希望が出て来た。
で、めでたしめでたしのハッピーエンドみたいに思われてたりもするけど、ちょいと待った!箱は、「この世の悪しき諸々のもの」が封じられてたんだよね?だったら、希望を単純にイイものっての、どうよ⁇ ってそう考えられるのが、まともな観察力のある人だと思うんですよね。
ギリシャ神話って殆どのお話が、一つの事柄を必ず表裏二面から見詰める構成になってるんです。
この場合は希望ですが、人間の生き往きは希望を持つことが最悪の結果につながることもある訳です。時に希望は、いいか悪いかの判断をさせる間を与えずに、人を前に進ませますからね。
これは私見ですが、パンドラの犯した罪で最も大きなものは、この希望を解き放ったこと、とも言えると思うんです。

パンドラ
ま、話しを観察力に戻すと、こいつは冷静な判断力が無いと発揮出来ない力なんですよ。感情的になると一方的になって、表裏二面から物事を見るなんて、できゃしませんわな。
人の揉め事にしても、片方だけから話を聞いただけで判断するのは危険なことです。揉め事なんてのは、どちらかに分が有るにしても、お互いの主張の中間よりややどちらか側ということが多いものですから。
何をするにしても、どんな行動をするにしても、観察力が無ければ求めることの根っこに近づくことは、不可能とまでは言いませんがまず無理だというのが私の持論です。で、観察力を発揮出来るということは、その時点で冷静だということにもなる訳です。
コレは勘違いされがちなんだけど、細部、つまりディテールを捉えるのは観察力ではありません。それは、たいてい熱意という感情に支えられたものが大きいですから、たいした観察力は要らんのです。物事の大極を掴み、本質に近づく力こそが観察力なのです。
私は観察力の指標としてよくギリシャ神話のパンドラの箱の話を挙げます。
パンドラが、この世の悪しき諸々のものが封じられている箱を開けてしまい、それらはアッと言う間に世界中に拡散してしまって、パンドラが慌てて箱を閉じようとすると、中から弱々しい、開けてくれ、って声がして、仄かな光とともに希望が出て来た。
で、めでたしめでたしのハッピーエンドみたいに思われてたりもするけど、ちょいと待った!箱は、「この世の悪しき諸々のもの」が封じられてたんだよね?だったら、希望を単純にイイものっての、どうよ⁇ ってそう考えられるのが、まともな観察力のある人だと思うんですよね。
ギリシャ神話って殆どのお話が、一つの事柄を必ず表裏二面から見詰める構成になってるんです。
この場合は希望ですが、人間の生き往きは希望を持つことが最悪の結果につながることもある訳です。時に希望は、いいか悪いかの判断をさせる間を与えずに、人を前に進ませますからね。
これは私見ですが、パンドラの犯した罪で最も大きなものは、この希望を解き放ったこと、とも言えると思うんです。

パンドラ
ま、話しを観察力に戻すと、こいつは冷静な判断力が無いと発揮出来ない力なんですよ。感情的になると一方的になって、表裏二面から物事を見るなんて、できゃしませんわな。
人の揉め事にしても、片方だけから話を聞いただけで判断するのは危険なことです。揉め事なんてのは、どちらかに分が有るにしても、お互いの主張の中間よりややどちらか側ということが多いものですから。
何をするにしても、どんな行動をするにしても、観察力が無ければ求めることの根っこに近づくことは、不可能とまでは言いませんがまず無理だというのが私の持論です。で、観察力を発揮出来るということは、その時点で冷静だということにもなる訳です。
コレは勘違いされがちなんだけど、細部、つまりディテールを捉えるのは観察力ではありません。それは、たいてい熱意という感情に支えられたものが大きいですから、たいした観察力は要らんのです。物事の大極を掴み、本質に近づく力こそが観察力なのです。
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