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自らに妥協することなかれ。

寒に入って、浜名湖から吹きつける風は皮膚を剥ぐような鋭さだった。

梅の蕾はまだ固い。

松籟と海鳴りと、薄桃いろの空とが、みんなで幼い長松丸を威嚇しているようであった。

手には感覚がなく、足の爪先もしびれかけている。

その風の中で、七歳になったばかりの長松丸は、足を踏みはり、片肌ぬいで的に向かっている。

三人の近侍は、決して矢も取ってはくれなかったし、当たっても褒めなかった。彼らはただ石像のように控えていて、長松丸の三十射の終るのを待っている。

長松丸はときどき矢をとり落とした。そして、それを拾おうとしてかがむたび、片肌脱いだ上半身に冷水を浴びせかけられるような寒さを感じた。

しかし、そのために、彼は決してむずかりもしなければ疳も立てなかった。

(これが武将の子のつとめなのだ・・・・・・・)

幼い胸で、それを納得しているからであろうか。いや、それはやはり生まれついた性格にもよるらしかった。

長松丸には長兄の信康の気鋒はなく、その代わりに烈しい癇癪もなかった。

ほとんど別々に育てられた次兄の於義丸と比較しても、あるいはこの方が従順な生まれつきなのかも知れない。

この長松丸が、兄の於義丸を大阪へ送り出してから、またいっそう几帳面に、日々の日課を守るようになった。

たぶん、彼は彼なりに、他人のもとへ行かねばならなくなった兄に、義理立てしているのかも知れない。

しかし、矢が的中しても褒めないのは家康の言いつけであった。

と言って家康が、直接褒めるなと命じたのではない。

「- 褒めねばせぬ癖を、信康にはつけてしもうてなあ」

そう言った言葉を本多作左が聞いていて、近侍にかたく止めたからであった。

矢は次々に松の並木になった十間向こうの的に送られ、あと七、八本になった。それでも長松丸の小さな頬には血の気が浮いて来なかった。

運動による温みよりも体温を風に吹き千切られる方が早いらしい。

そういえば、一本ずつ入念に狙って呼吸を詰めてゆくたびに、引く手がブルブル震えている。早く温くなろうとする意志は彼にはないらしかった。

あるいはそのように考えるのは訓えられた道にそむくと律儀に考えているのかも知れない。

また、一本二本と、たどたどしく射ていって、やがて最後の矢を採った。

取り上げて筈につがえて、ホッとしたのは、やはり、これで終るのだという子供らしいよろこびからであったろう。

と、そのとき、彼の背後で、

「待て長松 -」

穏やかだったが、重い声で呼びとめたものがある。

家康だった。

長松丸はあわててふり返って一礼した。

「そちはいま、最後の矢をとりあげて何を思うた?何か思うたことがあろう」

家康は、厳しい表情でそう言うと、自分のうしろに従って来ていた鳥居松丸をふり返った。

「松丸、矢をあと二十本」

「はッ」

松丸は、ギクリとしたように長松丸と家康を見くらべて、言われるまま矢を補った。

「長松」

「はい」

「五石、十石取りの侍ならばそれでよい、がそちはもう少し射ねばならぬ。続けなされ」

「はいッ」

「松丸、床机を。わしもここで長松どのの腕を見よう」

長松丸は素直に一礼して、またたどたどしく射つづけた。

うしろには父の視線がある・・・・・・・そう思うと前よりいくぶん堅くなり、感覚のなくなった指尖で矢を取りおとす数が多くなった。

家康は近頃いよいよ肥えだした体を床机にかけて、黙々とこれを見てゆく。

そして、補給した二十本の矢が最後の一本になるとまた言った。

「あと二十本」

「はいッ」

「長松どの」

「はいッ」

「足軽大将ならばそれでよい。が、そちはもう少し射ねばならぬ」

「はいッ」

しかしこんどは、四本目から的にとどかない矢が出だした。そのたびに、長松丸はうしろを気にして動揺した。叱られはしまいかと、小さな心を痛めての動揺と一目で分った。

しかし家康は、その事では何も言わなかった。

長松丸はいよいよ慎重に構え、次の矢は事なく届いた。

しかし、その次のはまた的の一間ほど手前で土をかみ、そのまま力なく右にはねた。

もはや、長松丸の力が尽きたことがよく分る。それだけに長松丸づきの近侍は時々家康の方を見やった。

(もはや、お止めなされて下さればよいに・・・・・・・)

しかし、その二十本が終ると、家康はまた水のような声で言った。

「あと二十本」

「はいッ」

「五万石、十万石の侍大将ならば、それでよい。が、そちはもう少し射ねばならぬ。続けよ」

そのときにはもう長松丸の顔は真っ赤になっていた。

おそらく肩は腫れだしているかも知れない。矢はほとんどと言ってよいほど途中で落ち、その代わりに、小さな前髪のあたりからユラユラと湯気が立って来た。

そしてその二十射が終ると、家康ははじめて床机を立って、

「長松、大将というは辛いものじゃの。どうじゃ、大将になれそうかな。射よと言うたら一生でも射つづけてゆくのが大将じゃが」

低い声でそう言うと、そのままその場を去っていった。

(C)講談社 山岡荘八 著 「徳川家康」 第十一巻より。



全二十六巻に及ぶ、山岡荘八氏の歴史大河小説「徳川家康」の中で、私が最も愛する何節かのうちの一つであります。長松丸とは、後に徳川二代将軍となる徳川秀忠の幼名です。七歳の子供にしてこれだけの修練を積み、それを青年期まで続けることによって、やっと家を率いる青年武将となることができるのです。徳川秀忠は、その母西郷氏の体質を受け継ぎ病弱でした。現代と違って、風邪を引くことが生命の危険に直結するにもかかわらず、それでもこのように勤めなければならない当時の世の中の厳しさがよく解かるお話です。

現代の、現在の、我が国の政治家の跡を継いだ者達や、また、子供を真綿にくるんで育て、褒めて育てるのがいいなどという愚かで過保護な親達に、爪の垢を煎じて飲ませたいものです。

これは、装いの、その人なりのスタイル、というものにも繋がることで、確かに、お洒落をするということは楽しいことであって、楽しんで励むというその部分も勿論大切なのですが、前項で能や茶道について申し上げたように、何かを確立するためには、自分にも周囲にも甘えない厳しさというものが、どうしても必要になります。

例えば、上着の胸のシルエットを気にするならば、カットやラペルのカーブを気にする前に、自分の胸囲や胴囲との差などをきちんと把握して、体型構築の努力をすべきであって、それ無しに、着用した際の外観の全てを仕立て屋さんに頼ってしまうから、仕立て屋さんを魔法使いのように考え、自分の体型で可能なことと不可能なことの判断も出来なくなってしまうのです。こんなことで、自分なりのスタイルなど確立できる筈がありません。

洒落者達のスターである、ウィンザー公やフレッド・アステアが、生涯を通じてスリムであり体型を維持していたのは、自然とそうなったのではなく、努力をしていたのです。その努力は、その結果得られるもの以外に他人の目に触れない、孤独で辛いものですが、絶対に必要なものなのです。そして、彼らは「一生射つづけた」のです。

私自身も、時に折れそうになる心を、彼等の老齢にして益々洒脱で華やかな肖像写真や、前出の一節など読み返しながら、自分を叱咤しております。

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