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自分の問題とルール。

男性の装いには、様々な場面において多くのルールが存在します。
ルールを正しく把握して理解するのは、大切なことだと思います。けれども、昨今のアパレル・ショップや、個人の着こなしブログ的なものを散見致しますと、些か、そのルールの運用の仕方を取り違えている、或いは、自己満足を得る為と思われるルールの運用が多く目につくように感じます。
勿論、その人個人が楽しむために装うのは、決して悪いことではありません。しかし、ダークスーツ以上のドレスコードが存在する場面では、その場面の趣旨を尊重すべきでしょう。服装を合わせるということは、同じ目的や価値観で集い、その集いをより充実したものにするためにするのですから、成人男子たるもの、まずそのことを優先すべきだと思います。

また、装いにおけるルールの運用は、個人々々の個性によって、それが微妙に変わるということを忘れてはならないと思います。誰もが同じように運用すればよいというものではないのです。厳守しなければならない者がいれば、アバウトでよい者もいるのです。
具体的に書かせて頂けば、次のようなことです。地方の冠婚葬祭には、都心のアパレル関係者には評判の悪い、参加者全員ブラックスーツに白シャツ白ネクタイ、または、黒ネクタイという場面がよくあります。この場合、多数の装いに合わせるのか、国際的なルールに準ずるのかという議論があり、それぞれの支持者による意見がありますが、どちらも愚見であると申し上げざるを得ないでしょう。なぜならば、当人の個性というものが全く考慮されずに、ルールの運用の成否だけが問題にされているからです。
人間は、一人々々見た目も印象も違うのです。周りと違う服装をしていても、全く周囲に悪印象を与えない人もいれば、ほんの少し変わっただけで、良くない印象を与える人もいます。これは人間関係に、相手にキツイことを言っても憎まれない人もいれば、そういうことを匂わせただけで敬遠される人がいるのと同じことなのです。
前者は、自分の思ったような服装をすればよいでしょう。周囲への配慮として、あまり奇抜な事はしない方が良いと思いますが、ある程度の自分の個性の発揮はあってもよいでしょう。
後者は、周りに合わせた服装を心掛けて、「正しくはこうだ・・・」とか「自分は・・・」という気持ちは押さえるべきでしょう。
本来、こういったことは、ドレスコード云々や、どう装うか以前に、個々が当然把握しているべき事柄で、二十代の若者ならばいざ知らず、三十も過ぎて、自分がどういう人間かもわからない者に、装いのルールがどうだのという話題自体が無意味ですね。
これは、ルールの問題ではなく、その人その人の「自分の問題」なのです。

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さて、その装いのルールですが、日本人は、薀蓄やそもそもルールを好むところがありますから、そういった知識を得ると、その精神的比重を大きくしがちですが、それはかなり野暮なことだと書かなければなりません。
覚えたてのルールを、守ろう守ろうと必死になっている姿ほど滑稽なものはないからです。ルールというものは、身について意識せずに自然に運用できなければ、知らないのと同じことなのです。自然に運用できるようになると、これまた自然に、その人なりのカスタマイズがされていくものなのです。そして、その自然な運用のためには経験が不可欠で、残念ながら、二年や三年で身につくようなものではないのです。稀に、生まれや育ちに関係なく、エレガンスの権化のような方も存在しますが、それは例外です。
ルールを把握した上で経験を積み、周囲から見れば落ち着いて素敵で、場面を乱さないその人なり(家や一族共通ということもあるでしょう)の作法、それをマナーというのです。
そうした作法を身につけている方が、他人の装い方を批判するでしょうか? 自分の装いをあれこれと他人に説明したがるでしょうか? そのような慎みの無い行為をする方はいないでしょう(笑)。
これらが理解されていないと、滑稽で、妙な勘違いが生まれてきます。
例えば、年にほんの数回タキシードを着るか着ないかの者が、フォーマルが云々と述べたり、正礼装がどうとか言っても、それは知識だけの物言いであり、逆に、その知識が正確であればあるほど滑稽になってしまいます。
個性の個人差として前述しましたが、装いも、その本人の生活ステージに合わせて努力し、洗練させ、磨き上げていくべきで、日常、スーツ姿が多いのであればスーツの装いに、セパレーツが多いならばその装いにこそ、情熱を注ぐべきでしょう。もっとも、若者が、「いずれ、毎日のように礼装する人間になるのだ」と、走って行くのであれば微笑ましい部分も多々ありますが(笑)。

装いのマナーというものは、食事のマナーとほぼ同じと書いてもよいかもしれません。それは、この種の事ほど、その人の生きてきた、育ってきた環境を想起させるものはないからです。食べることと着ることは、悲しいかなどうしても「お里が知れて」しまうのです。そして、大人になって知識だけが身について、上手くこなしてやろう、とするから益々いけなくなってしまう。マナーにおける所作とメンタルは、自然に発露されるからこそ美しいので、それにはどうしても、少なくとも少年時代に身につけて経験を積んでいなければ、まず難しいのです。
自然な所作ができれば、そこに自然に、その人なりの癖や習慣が微妙に溶け込んで、ルールに則った、けれどもその人だけの所作が出来上がるのです。それが、スタイルというもので、その人その人の個性によって、それが「ほんの少しの外し」に見えたり、「一滴の毒」に感じさせたりするのです。そうした部分だけをやたらとクローズアップして、意識的にやろうとしたり、観察して外しだの毒だのと表現する者は、自分なりの自然な所作が身に付いていない人間なのだと自ら喧伝している、とも言えるのではないでしょうか(笑)。
ポール・キアーズの著書の巻頭の文章で、「魚用のナイフで肉を切ろうと、シャンパングラスで赤ワインを飲もうと、そんなことは本人の自由。そんなことで、人を批評するのは間違っている。しかし、ワイルドが書いたように、見た目で人を判断しないのは愚か者だけである、という言葉もまた事実である。」というのは、上記のようなことを婉曲な言い回しで言っているのです。

私は、今回のこのページの内容を書くことを迷い、躊躇しました。それは、不可能とまでは言わなくとも、どんなに努力してもどうにもならない、というネガティブな部分が存在し得るからです。
以前のページにも少し書かせて頂きましたが、それは、「学生生活が終わって初めてスーツを着る」ような人が多い日本人には、決定的に不利な内容なのです。
しかし、今回敢えてそれを書かせて頂いたのは、自己認識を冷静にできれば、不可能のパーセンテージはかなり下がる、と思ったからです。
知識に逃げず囚われず、これも以前のページに書かせて頂きましたが、立場や得た物が、容姿や人間的魅力をカバーするなどと独りよがりな甘えをせず、自分に有るものと無いものをきちんと把握した上で、穏やかに堂々と「三十路の手習い」を完遂し、「素敵なネクタイですね」ではなく、「~さんていつも素敵だよね」と言われる日本の方たちがどんどん増えていくことを、私は心から願っております。
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