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利休とブランメル。

私は、心静かになりたい時に、よくお茶をたてることがあります。
幼少期、じっとしていられない子供であった私は、色々な習い事をさせられ、その多くは、ご教授くださる方達と諍い、続きませんでしたが、何故か、茶道だけは長く続けられました。おかげさまで、名取りを頂くまでになりましたが、私のような子供が、茶道を続けられた理由として、茶道には食事やお菓子が付き物であるということが最大の理由であったことは否めませんが(笑)、その独特の世界観、空気、音、そして、私がなかなかできない所作を、自然に易々と、しかも美しくこなす大人たちに魅された、ということもまた大きかったのです。

日本人で、千利休をご存知ない方は少ないと思います。
侘び茶を確立した人物、茶道を我が国の伝統文化として定着させる基となった人物として、茶道を嗜む人間からは、流派を超えて半神的な扱いをされますが、大茶人と言われる人物は他にもいたというのに、なぜ、利休だったのでしょうか。
唐物や名物といった贅沢な茶器に頼らずに、装飾性を否定し、ある意味禁欲主義的ともいえるやり方で、侘び茶の世界観を表現し得たことなどを理由に挙げる方も多いのですが、私は、それでは説明しきれないものがあると思っています。

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千宗易(利休居士)座像

元々、千利休は、織田信長の抱えた茶人であって、津田宗及、今井宗久とならんで、天下の三宗匠とよばれる茶頭でしたが、この三人の中では末席に近い扱いでした。それが、豊臣秀吉の世となって、秀吉に引き上げられて、ほぼ独占的に彼の茶頭となり、茶の湯に関する唯一のアドバイザーとなりました。千利休の利休というのは、秀吉が仲介し、正親町天皇が勅許した「居士号」です。
秀吉から、「天下一の茶人」と号されたこと。利休の卓越性、天才性、そして工夫、研鑽が、それらをして、茶道=千利休というイメージになったのでしょうか? しかし、私はいずれも、時の流れの長きに渡って、道と名の永続性を得るためには小さ過ぎるものであると思うのです。
利休は、晩年に秀吉と対立、終には切腹を命じられて二人の関係が終わるのは周知のところですが、私は、この対立にこそ、利休が他の茶人達と違い、後世に道と名を遺す大きな理由があると思うのです。

現在でも、文化事業には時間と金がかかります。そのために、多くの芸術家などの表現者は、経済的に富裕で、世の中への影響力も大きい人間をパトロンとして求めます。国家的な事業となれば、必要な力はますます大きく、利休の活動は、秀吉のバックアップ無しに実現することは有り得なかったでしょう。実際、利休以外にも、多くの茶人や画家などが、大名のお抱えとして活動を保証されています。
そして、利休が他の茶人たちと違っていたのは、こと茶道に於いては、その恩人でありパトロンである秀吉に対しても、一切の妥協をしなかったという一点です。この時代、パトロンと正面切って対決した人物は、他にありません。せいぜい、ひとり毒づいて、山野に隠れ住むくらいのものでした。
秀吉が茶室で戯れをして、利休がそれを無かったこととして平然と無視したのは有名なエピソードですが、これ以外にも、秀吉に対して利休は、茶の湯に関しては、「あなた如きが、私と対等にものを言ってもらっては困る」という態度を取り続けます。侘び茶の観念も、豪華絢爛、金ピカ派手派手の秀吉のやり方を対比として、そうした表面的な贅沢よりも、もっと素晴らしい内面世界がちゃんとあり、それが私の侘び茶であるというのを、利休の創した茶室が物語っているように思えます。意地の悪い見方をすれば、利休は、最初から、その侘び茶の観念が表現したいがために、秀吉を成金の俄か茶人に仕立て上げた、ともとれます。

ここまで読んで頂いた皆様は如何でしょうか? ご自分のパトロン、良き理解者であり、スポンサーでもあり、よい人ではあるが、その分野に関しての理解度、研鑽は今一つという人物に、満座の中で面と向かって、「あなた、私の前で解かった風な口きいてもらっちゃあ困りますね」と言えるでしょうか(笑)。
私は、揉め事を推奨して書いている訳ではありません。書きたい事、言いたい事は、自分の追求するものに対する姿勢、気概なのです。
では、皆様が、傍観者の立場からご覧になったら如何でしょう。「御用学者」、現代では、「提灯〇〇」といった言い方もありますが、これは、かなりの皮肉を含んだ言葉です。アイツは、誰々がいてくれたから、ああ成れたんだ。そんな、おもねる人間だと思われている者の表現するものは、いかに素晴らしくても、道などとしては遺らないでしょうし、その人の名前もその他大勢に埋もれていくでしょう。
己の追求する分野に関しては、庇護者と言えども妥協せず許さない。これは、実は表現者にとっては、キモといっていい重要事項なのです。

しかし、そうなると、パトロンも伝家の宝刀を抜かざるを得ません。「どっちが親分か解からせてやる」ということですね。ことに秀吉とっては、茶の湯=己の、つまり日本の政治の一部ですから、自己の権威低下は絶対に避けねばなりません。秀吉の利休に対する難題は、こうして突き付けられたものです。勿論背後に、堺と博多の商人の主導権争い。秀吉配下の、尾張派と近江派の勢力争い等、色々な事象が複雑に絡み合ってはいますが、根本的には、「俺の羽根の下で、俺の言うとおり、俺が満足するようにきちんとやれ」ということです。
これに対して、利休は、秀吉のそうした本音の部分は無視して、事実と反することには事例を挙げて説明し、感情的な言い訳は一切しませんでした。「どうぞやりたいようになさって下さい、でも、私を思ったようにはできませんよ」という訳です。
この頃になると、秀吉の行動は実に歯切れが悪く、逆に、利休はヤケクソなのかと思う程思い切りよく行動しています。最終的に、利休を殺すことを視野に入れなければならなくなると、秀吉は明らかに困惑し、正妻の北の政所や徳川家康に嘆いたという記録があります。そして利休は、北の政所から、とりなし役を引き受けるから、という知らせが来ても、「私には、おとりなし頂くようなことは何一つない」と、これを拒絶し、自身の死を確定させるのです。

もし、この段階で、利休が命惜しさに秀吉の袖にすがったら、やはり、利休はその他大勢になってしまっていたことでしょう。これも、意地の悪い見方ですが、最終段階で、利休は自身の死が侘び茶に於いてどういう成果をもたらすか、ということに気が付いていたのではないでしょうか。
この、自身の死によって利休は、己の「情熱、努力、工夫、研鑽、克己」が自身の命と等価であるか、それ以上のものであると表現し得たのです。よく、「~は、私の命です」という言い方がされますが、こうして、それを地でいく人間は滅多にいるものではありません。
当時の人々も、利休の死の本質がそこにあることは気が付いていたのではないかと思います。だからこそ、茶道は時を超えて、日本の伝統の流儀の一つとして確立し、千利休の名を現代の私達にまで広く知らしめているのだと、私は確信しています。

私が、本質的に同じタイプの人物だと感じる人間が、英国にもおります。ジョージ・ブライアン・ブランメルです。
今日に至るまで、男服の基本概念を確立したといわれるブランメルは、その身嗜みによって、時の英国々王ジョージ四世に見出され、王の側近となりましたが、やはり、その身嗜みに関しては、パトロンであったジョージ四世に対しても妥協せず、時に辛辣でありました。肥満した王に、「おい、ビッグベン、従者を呼べ」などと言ったのは伝説であり、事実ではないと思いますが、その伝説の元になるような、時にはかなり際どい物言いはしたのではないかと思われます。

ブランメルの時代というのは、それ以前の絢爛豪華で色も多彩、デブが偉そうに見える男服が消えていく頃。ブランメルが纏った衣服は、黒やブルーに白というモノトーンに近い組み合わせで、素材を吟味し、仕立ても身体にフィットするものでした。やはり、身嗜みに「情熱、努力、工夫、研鑽、克己」を必要とする服装で、絢爛豪華を背景にその対比として登場してきた点は、利休と共通するものがあります。
利休も、常に墨染めの衣に宗匠頭巾でしたし、この二人が、「Simple is beautiful.」を胸に持っていたことは間違いないと思います。

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ジョージ・ブライアン・ブランメル

ブランメルもやがて、ジョージ四世と訣別することになりますが、落ちぶれて借金苦に喘ぐブランメルに、ジョージ四世は、カーンの領事職を世話しようと手を差し伸べます。喘ぐという言葉は、ブランメルに失礼でした(笑)。きっと、「別に喘いでなんておらんよ」と言われてしまうでしょう。もし、ここで、ブランメルが差し出された国王の手を握ってしまったら、おそらく、ブランメルの名は今日まで遺らなかったでしょう。差し伸べた手を払い除けた台詞のニュアンスがまた、利休にとても似ているのです。曰く、「そんな役職は存在自体が無駄だ」(笑)。
これで、ブランメルは投獄されることになり、その晩年は、傍観者の立場から見れば、惨めで寂しいものでした。しかし、これによってブランメルは、彼が追及したものが、今日なお彼を始祖とするものだと仰がれる名を手に入れたのです。

利休とブランメル。この二人は、何かを創造する人間、表現する人間に、二つの啓示を与えていると思います。それは、「徒手空拳で、己の能力と才能だけで世に何かを為そうというものは、最大の協力者にこそ妥協してはならない」ということと、「それによって生じる自己の破滅を逃れようとしたら何事も為せない」ということです。自分が大切に思うことを貫くということは、時にそうしたリスクをも伴うものなのです。
そんなものに何の意味がある、と思われる方もいらっしゃるでしょう。確かに、そういう見方もあり、いや、世の中ではそういう見方の方が多数派なのでしょう。しかし、ならばバイロンのような人間が、「ボナパルト(ナポレオン)になるより、ブランメルになりたい」などと評するでしょうか。
やはり私は、日々、つつがなく行きたいと願う反面、利休とブランメルのような生き方もまた、立派なものだな、と感じざるを得ませんし、そういった気概を持って生きたいものだと思うのです。

利休の辞世、
「堤る我得具足の一太刀今此時ぞ天に抛」
お読みになれるでしょうか?
「ひっさぐる わがえぐそくのひとつたち 今この時ぞ天になげうつ」
この辞世に、皆様は何をお感じになるでしょうか?
そして、ブランメルがもし、利休の創った茶室にいたら、そこに何を感じるでしょうか?
霜月初め、薄茶の苦みと甘みを噛みしめながら・・・。
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